第850話 「達観」
旧ユルシュル領の中央――城の上部にあるテラスで聖女はぼんやりと眼下に広がる景色を眺めていた。 少し離れた所には護衛のエイデンとリリーゼ。
ここまでやって来た目的は聖剣と魔剣を狙って来るグリゴリという天使を迎え討つ為だ。
エルマンは自分が何とかするから気にするなと言っていたが、表情を見れば厳しいと言う事は分かる。
今も国中から戦力をかき集めてはいるが、勝てるかと聞かれると頷くのは難しい。
エルマンの戦力的な見立ては正しく、聖女もそれは痛感していた。
まともにやれば負けると。
自分とクリステラだけの話であるなら問題はないだろう。
逃げ回ればいいだけの話だからだ。 だが、聖剣はアイオーン教団にとって必要不可欠な物だ。
手放す事はあり得ない。 その点は聖女も理解していたので、そんな考えは脳裏に過ぎりはしたが口に出す事はなかった。
都市の外周では資材などが運び込まれ、外壁の確認や魔法で動く巨大な攻城兵器が設置されたりと可能な限りの防備の増強を行っている。
聖女は脳裏で彼我の戦力分析を行っていた。 グリゴリに関しては非常に分かり易い。
天使と聖剣使いのブロスダンとアリョーナ、それ以外は手強いが脅威足りえない。
自分達が居なかったとしても現状の戦力だけで迎撃は可能だろう。
裏を返せばその天使と聖剣使いの両者をいかに抑えるかにかかっている。
天使も聖剣使いも一対一なら勝利は充分に可能な相手だ。 ただ、それは相手も理解しているだろうからこちらでは対応しきれない量の天使を送り込んで来るだろう事は彼女にも容易に想像が付いた。
――今回も人が死ぬ。
それも大量にだ。 今回は今までの戦いとは訳が違う。
敵との戦力差がはっきりしているので、聖女に圧し掛かる絶望感は深い。
そしてそれが避けられない事柄と言う事が彼女の気持ちを沈めて行く。
――ローならこんな時どうしただろう……。
心が弱った時、考えるのは今は遠いオラトリアムに居る筈のもう一人の自分の事だ。
聖女にとってローという男は、強さを体現したかのような存在だった。
否、思い出は美化される。 今の彼女の中ではそのような存在になっているというのが正確だろう。
迷わない、悔やまない。 そして一切、動揺しない心の強さを持っていた。
果たして自分はそこまでの境地に至れるのだろうか? 身体だけでなく、心の強さを得られるのだろうか? そんな事を考えると無性に会って話を聞いて貰いたいと言った気持ちが湧き上がる。
「……本当、僕はまだまだなぁ」
そう漏らした呟きは誰の耳にも入らずに消えて行った。
「やれる事はやったけど、状況は中々厳しいわね!」
城の一室。 クリステラとモンセラートに割り振られた部屋で、ベッドで横になっているモンセラートがそう言うのを聞いてクリステラは僅かに表情を引き締める。
グリゴリの一件も彼女にとっては懸念の一つではあったが、それ以上に気になる事があった。
「モンセラート、何処か悪いのですか?」
彼女の体調だ。 前回の戦闘から明らかに横になっている時間が増えた。
モンセラートは横になったまま、手を持ち上げてひらひらと振る。
「大丈夫よ! ここ最近、ちょっと疲れやすくなっただけだから」
「モンセラート」
クリステラが語調を強めると、モンセラートは小さく嘆息し――
「大丈夫よ。 心配しないで」
――安心させるように優しい口調でそう言った。
それは不調を肯定する物に他ならない。 クリステラは何故こうなったと考えるが理由なんて分かり切っている。
間違いなく権能だろう。 ユルシュルでの連戦に加え、グリゴリの襲撃時にも彼女はその力で味方を助けた。 権能についての知識に乏しいクリステラでもあれだけの規模の力の行使が何の代償もなしで行えるとは思っていない。
それに自分自身も権能を扱った経験がある以上、何となくだが分かるのだ。
――あの力は安易に使って良い物ではないと。
それでも状況がそれを許さず、モンセラート自身も拒まなかった事で甘えてしまったのだ。
抜ける事は戦力的には厳しいが彼女の命には代えられない。
「……モンセラート。 もうこれ以上――」
「――ねぇクリステラ。 隣のリブリアム大陸で起った戦いについては聞いているでしょう?」
クリステラの言葉をモンセラートがやんわりと遮る。
唐突な話題の変化について行けずにクリステラは言いかけた言葉を呑み込む。
「辺獄の領域フシャクシャスラ。 そこでの戦いに駆り出された枢機卿は多かった。 中には私が居た第五も含まれていたらしいわ。 多分だけど貴女と出会わなければ、私もあそこへ駆り出されて死んでいたでしょうね。 だから今、私がこうしていられるのは奇跡みたいな物と思っているのよ。 毎日、好きに出歩いてイヴォンとお喋りしたり、エルマンやカサイをからかって遊んだり、ハイデヴューネや貴女と食事をしたりする」
モンセラートは夢を見るような視線を天井に向ける。 その表情からは歳相応の幼さは消え失せていた。
それを見たクリステラの胸は潰されんばかりに痛む。 何故、年端もいかない娘がこんな達観したような表情を浮かべているのだ? あってはならないし許してはならない、そう思っていても現実は無情だ。 今のアイオーン教団には彼女の権能の力は必須と言っていい。 少なくとも天使とまともに戦う為には必要だ。
「だから私はこの日々を守る為に出来る事をするわ。 例えそれがどんな結果を招こうとも」
「ですがっ! 私はこんな事の為に貴女を連れだした訳では――」
だが、だからといってそんな事は許容できる程、クリステラは非情になれなかった。
「大丈夫よ。 別にこの後死ぬと決まった訳じゃないわ。 だからそんな泣きそうな顔をしないで。 ね?」
――無理だ。
クリステラはこれまで何人もの人を見て来たが、特にこれから死地に赴く覚悟を決めた人間の目は特に印象に残っている。 そしてモンセラートの眼差しは彼女が何度も見て来たそれとほぼ同じだった。
止められない。 仮に無理に止めたとしても彼女は強引に戦場に出るだろう。
「――……本当に大丈夫なんですね?」
「えぇ、まだ大丈夫よ」
結局、クリステラはそんな事しか言えず、モンセラートは何の憂いもないと言った透き通った透明な笑みで応える。
「何故かは分からないんだけど、きっと大丈夫。 何とかなるわ。 そんな気がするのよ」
モンセラートはそう言って笑みを絶やさない。
クリステラはそんな彼女を見て拳を強く握ることしかできなかった。
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