第686話 「苦渋」
「黒い霧に気を付けて! 力が奪われます!」
それを見た瞬間、聖女の鋭い警告が飛ぶ。
白金の聖騎士から発生した霧。 その禍々しい気配に見覚えがあった。
ウルスラグナ南方の街シジーロ。 そこで遭遇した事件で見た物と酷似していた。
――もっとも、威力は効果範囲を絞っている分、目の前の存在が放つ物の方が上だ。
「ハイデヴューネ! 気をつけな!」
凄まじい踏み込みの斬撃を聖女は何とか聖剣で受ける。
重く速い一撃。 何らかの付与がなされているのだろう、凄まじい熱量を纏った斬撃は聖剣の加護と防具の付加効果を以ってしても彼女の体を焼く。
兜の中で苦痛に僅かに歪ませながらも、彼女は負けじと睨み返す。
確かに強い。 今まで会った中で五指どころか三指に入る実力者だろう。
だが、バラルフラームで遭遇した辺獄種に比べればまだマシだった。 あの辺獄種の斬撃はまともに見えない程に速く鋭かったからだ。 対して目の前の辺獄種は辛うじてではあるが攻撃が見える分、まだ対処が容易だった事もあり接近戦に限ってはいくらか格が落ちる。
だからと言って脅威度が低いと言う事はあり得ない。
問題はその背の三対六枚の羽だ。 それぞれに何らかの付加効果があるのか、聖女が確認できただけで炎、脱力の霧、聖剣の光を防ぐ防御能力、後は恐らく魔法や権能による強化に干渉して無効化する能力。 後の二つは不明だが、判明しているだけでこれだけの強力な魔法――恐らく権能かそれに類する物だろう――を並行して操っている凄まじい騎士だ。
攻撃手段は羽を震わせての炎とその炎を纏った斬撃。
広範囲に広がる炎は聖剣で充分に防げるが、範囲を絞った炎は聖剣の防御すら抜いて来る。
そして、最も厄介なのが――
ヤドヴィガが舌打ち。 理由は斬撃がいなされるからだ。
聖女とヤドヴィガはこの戦に臨む前にお互いの戦い方と連携の擦り合わせを行っていた。
その為、組めばお互いの邪魔にならない程度には呼吸を合わせる事が出来る。
白金の聖騎士は両者の動きを読んでいるのか、ヤドヴィガの斬撃を左腕で流し、聖女の動きを意識して追撃を回避しつつ右の剣でカウンター気味に斬り返す。
――そう、彼女達の相対する敵は攻撃より防御が本領。
白金の聖騎士は広い視野で二人の聖剣使いの動きを完全に把握。 その攻撃を最小の動きで躱し、時にはいなして無力化。 体勢を崩した所で返しの一撃。
これこそが彼の本来の戦い方。 救世主――聖騎士とは信仰と秩序、背中を預ける仲間、そして何より支えてくれる民を守る事こそが本懐。
彼は本来、守り抜いて勝つ事を念頭に置いた堅実な戦いを好み、生前は軍勢の指揮は勿論、一兵卒として前線に出る事すらもあったのだ。 経験と彼自身の才覚から来る視野の広さは、戦況をコントロールしながらでも聖剣使い二人の動きを把握するぐらい訳はない。
戦況は英雄たる白金の聖騎士が優勢――かに見えるだろう。
――しかし――
六種類の権能の並列使用とそれに伴う負荷。 戦況に加え、辺獄による侵食と辺獄種の進軍コントロール。 味方の支援。
それだけの事を一人で賄い、聖剣二本を相手にして拮抗しているのは彼の優れた能力故ではあるだろう。 事実、二人の聖剣使いが揃ったとは言え、他が参戦しないのは彼が増援を送れない状況を作りだしたからだ。
本来ならここでヤドヴィガだけでも仕留める予定だったのだが、失敗に終わったのは彼にとっては痛恨の極みだっただろう。
何故なら聖剣エロヒム・ツァバオトが戦場に居る事は彼にとって、非常に都合が悪い事だったからだ。
聖剣エロヒム・ツァバオト。
第八の聖剣にして峻厳の柱の一角を担う「栄光」の剣。
その能力は持ち主に幸運を齎す。 ここで疑問が生じる。 幸運とは何か?
起きた相手に都合のいい事象が発生する事を指す。 転じれば敵対者に都合の悪い事象が発生すると言い替える事も出来る。
つまり、あの聖剣は想像もつかない不確定要素をばら撒く可能性がある危険物とも言える。
彼は聖剣を嫌悪しているが、欠片も侮っていない。 だからこそ分断して各個撃破と言う手段を執ったのだが――
――しぶとい。
シャダイ・エルカイの予想以上の粘りもエロヒム・ツァバオトが何らかの干渉を行った幸運の結果なのかもしれないと彼は思う。 何度も仕留めるチャンスはあったのだ。
首に届きかけた攻撃は一度や二度ではなかった。
だが、彼の剣はヤドヴィガに深い傷は与えても命にまではほんの僅かな所で届かない。
こうして聖女が合流した今も消耗した彼女を執拗に狙っているのだが、どうしても殺せないのだ。
致命の一撃を放とうとすると聖女の援護が入り、際どい所で躱される。
苛立ちを抑え込みながら努めて冷静かつ執拗に狙い続けるのを止めない。
彼自身、分かっているのだ。 余裕がない事は。
時間は彼の味方ではない。 全力の戦闘行動は彼の体の崩壊を加速させ、複数の権能は彼の精神を苛む。
聖剣の光による消耗は防げているが、防ぐ事自体が彼に負担を強いている以上は辺獄種は根本的な部分で聖剣と相性が悪いと言わざるを得ない。
対する聖女達もやられないように必死に応戦。 基本的に再生力に優れたヤドヴィガが前衛を務め、聖女が水銀の槍で援護と言った戦い方で確実に削る事を念頭に置いた攻めで対抗。
余裕がないのは二人も同じはずだったのだが、幸運な事に聖女はセンテゴリフンクスが襲撃を受けている事を知らない。 その為、彼女はこの戦いだけに全霊を注ぎこむ事が出来ているのだ。
白金の聖騎士の懸念は正鵠を射ていた。 彼は街の近くまで辺獄を侵食させる事で彼女達の意識を削ごうとしていたのだが、それを知る前に聖女が最前線にまで来てしまったので襲撃が効果を発揮していないのだ。
結果、聖女は彼の予想を大きく上回る早さで現れた。
否、この戦いは聖女の参戦で勝敗が大きく揺らいだとも言えるかもしれない。
本来なら彼女はウルスラグナに居るべき存在で、この戦いに参加できるはずはなかったのだから。
少なくとも彼の想定には含まれていなかった。 たった一人だけいるイレギュラー。
何万もの敵の中のたったの一人。 それが戦況に致命的な歪みを与えたのだ。
そして歪みは流れを変える。 証拠に死に体だったヤドヴィガは聖女の参戦と同時に持ち直し、戦意を取り戻した。 こういった場において精神状態が与える影響は大きい。 実際、持ち直したヤドヴィガの動きは随分と良くなっている。
――あぁ、憎い。
自分の信念を貫き、盟友達への償いの為に始めた戦いは最初の一歩で頓挫しようとしているのだ。
エロヒム・ツァバオトを振るう全身鎧の女に彼はあらん限りの憎悪を向ける。
彼の戦術眼は本物だ。 騎士としては勿論、指揮官としても彼は的確な判断と適切な状況を把握する能力がある。 それが言っているのだ。
――このままでは負けると。
辺獄種は無尽蔵に湧くが、彼の配下と彼自身は有限だ。
戦況をコントロールしている者を失えば烏合の衆と化し、遠からずに瓦解する。
何より魔剣を失えばこの領域は閉じて全ての希望は潰えるのだ。
仇敵はおろか、遠くで高みの見物を決めているであろう汚物共にすら届かない。
認めたくはないが、もう最終的な目標は諦めるしかないのだろう。
彼は広範囲に炎を撒き散らして聖女達の気勢を削ぎ、大きく距離を取る。 そうした理由は切り札を切る事を決心したからだ。
「何かしようとしています! 余裕を与えてはいけない!」
バラルフラームでの経験上、こういった行動を取る存在が何をするか痛い程に理解していた聖女は即座に彼の意図を看破。 開いた間合いを潰すべく炎を突っ切る。
――遅い。
切り札の用意にはほんの数秒あれば充分だ。
彼は左手に意識を集中。 その存在を呼び出した。
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