第一章 第二話

「香が立ちきりました」

 その言葉でふっと現実にもどされる。香が消えた後でも、うすい煙と甘いかおりはその場にただよっていた。

 陽月は他の選者を見やる。

 左大臣はきよはらのよしなり。五十はしているだろう、白髪しらが交じりにせぎすの男で、目元は厳しく暗く、長いあごひげを垂らしている。彼は神事や儀礼にかかわる地位を経て左大臣になったことから、神事とえんの深い竜を選ぶと孝保から聞いていた。

 決まり通りに孝保が話を進めて、左大臣をうながす。

 もったいぶるような長いちんもくのちしわがれた声が漂う香の煙を揺らす。

「……玄水竜家の、泉殿どのを選び申す」

 その言葉に、右大臣はおおぎようにたじろいだ。二人の大臣は対照的だった。

 右大臣のたかしなのつねは四十過ぎといった男性で、かつぷくがよくつるりとした顔をしていた。陽月を見たり、上に目をやったり、視線に落ち着きがない。右大臣は実務や内政に関わることが多く、選定の際はまつりごとの能力を重視するらしい。

「私は、碧木竜家の、楠葉殿を王にと」

 次は陽月の番だ。二人の大臣の選はすでに異なっている。この儀で王が決まることはない。

 それでも、ドクドクと激しく胸が打つ。実力で判断するという右大臣と同じ楠葉を選ぶのだ。ひどい当主を王に選ぶわけではない。自分に言い聞かせるが、孝保の指示のもとで、不正に加担していることが、陽月の心をさわがせた。

 何より、選定で最も大きな力を示したのは、白金竜家の鎮ではないのか。その思いが、うそをつくという感覚をいっそう強くした。

 孝保のにらむような視線を視界のはしに捉える。そのくちびるがかすかに動いた。

 さくこ、と。

 陽月のかたねる。

「……神剣は、碧木竜家の楠葉殿を、お選びになりました」

 ひどい苦さを感じながら、陽月は目を伏せる。

 選定の結果から、果ては守り役の名や性別まで、いつわりにまみれた儀式は終わった。

 それなのに、思っていたよりもずっとあっけなく、そして、何の問題も起こらなかった。

 儀式など、まるで茶番のようだった。



「左大臣は、次の儀でも水竜を選ぶだろう」

 選定の儀を終えた夜、陽月にあたえられたやしきで孝保は声を落としてそう告げた。とうだいのわずかなあかりの下で、自分をおどしている孝保と二人きりでいることに陽月はきんちようしていた。孝保は陽月の様子を見て取ってか、かすかに笑う。

かたくなるな。こんなやみの中に私と二人でおくするのはわかるが」

 この男をこわがっていると思われるのはいやだった。

「朔子の命がかかっているのですから、私の身に何が起きようとおそれなどありません」

 孝保は目を開いた後、あきれたような息をついた。

「そんなことを言えば、何をされるかわからないぞ」

 そうささやいて彼は陽月を引き寄せ、そのうでの中に閉じ込める。陽月がおどろいてき飛ばすと、彼は声を出して笑った。

「わかったら、言動には気をつけろ」

 陽月は孝保を睨みつけて選定の話をかした。孝保は時折こうして陽月を嘲って遊ぶ。いちいち気にしては相手の思うつぼだとわかっていても、腹が立つのは仕方がなかった。

「玄水竜家は各地の社家とも縁が深く、左大臣の下にある各所ともつながりがある」

「……左大臣と玄水竜家は親しいのですね」

 いかりがけない声でそう返事をすると、孝保は軽くまゆを上げた。

「親しい? さあな。まいないを授受するあいだがらをそう呼ぶのなら、ごく親しいと言えるだろうが」

 左大臣にわいおくっていると言われ、陽月は驚く。

「不正ではないですか。どうしてそんな」

 無感情な声が、驚く陽月をさえぎる。

すいりゆうたちが不正をする理由はあるが、お前には関係のないことだ。お前はただずっと、碧木竜家の楠葉を選べばいい」

 陽月はぐっと眉を寄せた。陽月自身、不正のただ中にいるのだ。陽月たち以外にも、色々なおもわくがある。しかし、孝保が言うように関係のないことではない。

「右大臣殿にも賂を贈っていたらどうするのですか。もし最後の儀で意見が割れれば、私が二人の大臣をせなければならないのですよ」

 最後となる第三の儀で、三者の票がすべて分かれた時、あるいはしんけんの選択だけが異なった時、そこで初めて三者でだれを王にするか論じ合い、神剣を含めた二票になるまで話し合われる。

「右大臣は、ゆうじゆうだんだから票がれる可能性はあるが、だからこそ、最後には神剣の選択にならう。みな、論じ合って王を決めることなどしたくないのだ」

 陽月からすると、なぜその王を選んだのか、理由を話し合って決められるなら、それが一番良いように思う。

「この国のいしずえは五竜だ。国で起こるきちきようも、全ては王となった竜の気にるものだとたみは思っている」

「……凶事が続けば、竜や、それを選んだ大臣にも原因があると、思われるのですか?」

 孝保は軽く頷いた。

「自らの意を満たす竜が王になればいいと思っていても、その治世がれては責任も負う。せっかく上りめた地位を棒にるかもしれない。であれば、わざわざしきの場で自らの名のもとで王にすよりも、神剣と同じものを選んでおきたいだろう」

 孝保は、薄くんで陽月を見た。

「結局のところ、楽なのだ。神剣という装置は良くできている。王が、何をもつてどう選ばれたのか、さらには誰に選ばれたのかを、おおかくしてくれる。王を選んだのは竜のつるぎ、その剣に神意をうかがうのは、都の外から来た斉家のり役だ」

「……誰も、誰一人として、神意など信じていないのですね」

「不都合をたくすには、形のないものはうってつけだ。明日あしたからは、いそがしくなると思え。竜たちは、自らを王に選ばせようと、手ぐすねを引いてお前を待っているからな」

 五竜も、陽月が王を選ぶと考えている。神剣を手に取り、竜としての力を見せた彼らでさえ、神意など信じていないのだ。

 最も強い力を示した竜を、選者は誰も選ばなかった。信じろと言われても無理だろう。

「……白金竜家の鎮様は、竜の力が強かったのに、誰一人、選びませんでしたね」

「だからどうしたというんだ? お前は私の命じた通りに選べばいい。……それにな」

 その後に続けられた言葉が、陽月にはわからなかった。

「白金竜は、王に選ばれてはならぬのだ」

「……なぜです」

「誰からも、王に望まれていないからだ。あいつが儀式でどれだけの力を示そうと、これからも誰も見なかったことにするだろうよ」

 無意識に陽月の表情はゆがんだ。

「宮中は、うそいつわりで出来た場所なのですか」

 けいべつするような気持ちがにじんだが、孝保は笑い飛ばす。

「お前と同じだな」

 陽月は目を伏せた。何も言い返せなかった。

 そしてあの時、陽月は神剣が選んだと皆の前で告げたのだ。そしてこれからも、その言葉をたてに偽りを言い続けなければならない。陽月も不都合を押し付けたのだ。神剣に。

「……もう、かくを決めろ。お前の守りたいもの以外は捨てろ。人一人にかかえられる物など、そう多くはないぞ」

 陽月は何も言わなかった。再び開かれた目の内には、厳しく、静かで、美しい故郷の風景だけがかんでいた。



 陽月は、孝保がるのを待って邸を出た。孝保を起こさないようしよくを持たなかったが、山育ちなので夜目はく。

 神剣のあるとうに、陽月は来ていた。

 五階建ての塔は、かべに沿ってせんえがくように階段がある。儀式を終え、神剣は陽月の手で元の最上階にもどされている。ひたすらにそこを目指した。

 最上階は下階よりもせまい。陽月はさぐりで明かり取りの窓を開け放った。

 ぬるい風と、うすい月明かりが入り込む。

 神剣は、うすやみの中にまぎれてしまいそうなちっぽけさで、中央にえられていた。

 なわで四方をぐるりと囲まれ、うるしりの台に立てるように、き身のまま置かれていた。切っ先は天を向いている。

 陽月はしばらく、ただ神剣をながめていた。ただの古ぼけた剣に見えた。

 儀式の時に感じた不思議さなど、もう感じなかった。それでも陽月は心のどこかで、何かを期待していた。

 五竜がその剣で不思議を見せてくれたように、たとえば、神意を陽月に囁いたり、あるいは陽月にも不思議な力を与えたり、神がいると思わせたり、挙げれば限りがないようで、挙げるたび、どれも陽月の本当の望みとはちがうような気がした。

 それでも、今の陽月のうれいを、打ちこわしてくれる気がしたのだ。

 神剣は、何も答えず、ただの置物のようにそこにある。

 こんなものに、斉家は仕えているのか、こんなちっぽけな鉄のかたまりに、陽月は──日夜子は振り回されてきたのか。名も故郷も女であることも捨て、別人になってまで。

 むなしい思いがした。

「父様……」

 神意なんてない。そこまでは口に出せずに、古い剣を眺める。

 ──それでも、私は朔子を守ります。あなたがしてきたように、あの故郷を守ります。

 全て捨てて、いつわって都へ来た陽月にとって、確かな質感を持って身の内にあるのは、朔子がほおれてくれた手のかんしよく、吉万呂の節くれだった手、子らの笑い声、あの山の空気の温度ばかりだ。たった二年、それでも、彼女は郷里のおさだった。陽月にとって、それが一番確かなもので、たった一つのきようだった。

 背後から階段のきしむ音がした。月とは違う赤い光が室内に混じる。

 陽月は振り返らなかった。その人が誰か、すでにわかっていたから。

「……白金竜、鎮様」

「守り役殿どの

 こうしつだが、低くきれいな声に振り返る。

 見た目が人と変わらない彼らを竜と呼ぶのは、敬意をはらってのことだと聞いていたし、ただの呼び名の決めごとだと陽月自身思っていた。

 しかし、彼らは誰にでもわかるほど、気配から人とは違う。

 鎮は中背よりやや背が高く、小さな手燭を持っていた。初めて見た時も、白金竜の名にふさわしいぼうだと思ったが、そこには簡単に人にぎよされることのない、いつもどこか厳しい表情を浮かべている。

 鎮を前に何を言っていいかわからず、神剣に視線を戻した。古ぼけた剣に視線を戻したら、後ろから声がかかる。

「神剣が、きらいか」

 その問いに、なぜうそをつかなかったのか。

「……嫌いです」

 そううなずいて、陽月はきびすを返し、塔を下りようとした。さらに、鎮のするどい声がかかる。

「守り役殿……誰に、楠葉を選べと言われた?」

 ドキリとして、足が止まる。

 その声にははっきりと、陽月の罪をただひびきがあった。

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五竜の国 偽りの巫女は王を択ぶ 和知杏佳/角川ビーンズ文庫 @beans

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