水中より。
水中より。
朝の憂鬱が少し混じった校舎の影と、冷たい机が不揃いに整列している。鞄の棚には誰の鞄もまだ入っていない。四角い部屋をふわふわと漂って暇をつぶす。
教室のドアががらりと開いて、あの子の顔が見える。
この席からそれを眺めるのが好きで、いつもすこし早起きをするんだ。
視界に入らない特等席。まるで世界の外側から神さまがぼんやり地球を眺めるように、ただただあの子を見ていた。
「おはよ」
視線を変えた君が僕に一言。
「そうだね」
視線を変えない僕。
そういって彼女は自分の席についた。
ひりひりとした沈黙を破るようにまたドアが開く。
「よっ」
「おはよう」
「昨日は長電話だったね」
人よりもちっちゃい心臓がぐらぐらと揺れて、表情が歪んでしまいそうになるのを堪える。
僕が最も嫌いな世界が四十秒。夜から朝になる狭間くらい曖昧で、スローモーな永遠。
そこからぞろぞろと教室に同じ服を着た人たちが入ってくる。
「相変わらず無表情だな、お前は」
僕にそう声をかけてくる人懐っこそうなやつ。そんなわけあるか、としかめっ面をする。
鐘の音は繰り返されて、短い時計の針がくるりと一周する頃。オレンジ色に染まった教室。
僕の席はこの時間になると西陽が差し込んでとても不愉快だ。
教室にはあの子が一人だけ。一生懸命ノートに何かを書いている。けれどもその背中が、熱心に勉強に打ち込んでいるわけではなくて、恋するアイツから連絡が来るのを待っているそれなのを僕は知っている。
今日はいつもよりその時間が長いらしく、数分おきに携帯電話を見てはポッケに仕舞い込んでいる。
そんなに頻繁に確認するなら、そもそも机の上に置いておけばいいのに。まぁそんなこと君に伝えることも無いのだけれども。
ノートに書くこともなくなったのか、肩よりすこし長い髪を揺らして君が立ち上がった。
「ひま」
そう呟いて僕のところに君がやってきた。
「僕じゃ暇は潰せないよ」
「ねぇ、なんか話してよ」
「うーん、じゃあとっておきの話。実はクラスの人気者の中野は、クラスメイトの三人の女の子に好かれていたんだ。しかもたまたまその三人、中野に告白を決行したのが同じ日、同じ時間だったったんだ。すごい話だろ?僕はあまりに驚いてさ」
「ぱくぱくしてる」
「そう!絶句してしまったんだよ」
「キミは悲しい時はあるの?」
僕のとっておきの話を遮るように君は話題を変えた。やれやれ、なんだその話は。と少し呆れたけれど、僕は優しいからその質問に答えることにした。
「悲しい時? あるよ。朝、君が教室に入ってその後に君の良い人が入ってきて、そこからのスローモーな永遠が嫌いなんだ。あとはこの西陽がどうしても不愉快。悲しいとはすこし違うけれども。」
「私はね、放課後の西陽がこの水槽に当たる時間がとっても悲しい。早く迎えに来てよってとっても寂しくなるの」
「そう。そっか」
僕も君も同じオレンジが嫌いなことが判明して数秒。机の上に置いていた携帯電話の音が鳴った。
それは僕と君のさよならの合図。西陽に照らされた君の顔がぱっと明るくなった。
「はい、サービス」
そういうと君はいつもより小瓶を多めに振った。
小瓶からこぼれ出したピンクと茶色のなんていう名前かわからない物体は、水面をゆらゆらしたのちに頭の上に降ってくる。
そんなには要らないけれど、君がサービスというのならと少しだけはしゃいで見せた。いつもより元気に泳げた気がするけれども、なんだか目のあたりが熱い。涙が出ても、水の中だからわからない。木を隠すなら森の中、涙を隠すなら水の中に。と訳の分からない格言を思いついた。
そんな僕の姿を見ることはなくいそいそと支度をする。
気がつけばあんなに不愉快だった光も窓の影に隠れて、僕の部屋を照らすこともなくなっていた。
泡がふわふわと視界を上る。
僕は君に何も伝えられないまま、この水の中に涙を隠していよう。
夜がもうすぐという頃、いつもなら月の光が優しく僕とこの不揃いに整列した机たちを照らす。
ただ、今日はどうやら真っ暗だ。まぶたが無いからそんなはずは無いのに。
朝の憂鬱が少し混じった校舎の、建て付けが悪くなった教室の扉が開く。
いつもの時間に、いつもの生徒が教室に入ってくる。
視線をずらして、鞄の棚の上の水槽をみたその生徒は驚いてその水槽に駆け寄った。
昨日の小瓶からこぼれ出したピンクと茶色の得体の知れない物体と、赤い小さい物体がゆらゆらと、不規則に漂っていた。
もう一度扉が開いた時に、泡が一つ上る。それは水中より隠せなかった涙だったのかもしれない。
本当のような嘘のような Fumi @tadafumi_n
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