新暦九九五年 十二の月 その四

 イリスは大量に積まれた布の上に落ちた。落下の衝撃は吸収されて、怪我は負わなかった。そこは正方形の小さな部屋で、使い古されたシーツが積み上げられていた。灯りはなかったが、すぐに暗闇に目が慣れた。

 イリスの腕に抱えられているファン・アイクがうめき声をあげた。腹部の傷に当てているファン・アイクの手の上に、イリスは自分の手を乗せた。暖かい血がイリスの太ももを濡らしている。

 頭上を、イリスは見上げた。天井にぽっかりと口を開けた四角い穴がある。その先は暗く、もう穴の先はふさがれているようだ。

「大丈夫だ。こちらから解除しない限り、あの仕掛けは作動しない」ファン・アイクが懐から小さな石のようなものを取り出して、口の中に入れ、かみ砕いた。「痛み止めだ。魔法補正がかかってる。これでしばらく話ができる」

 イリスは部屋を素早く見渡した。小さな扉がひとつだけついている。

「私はもう助からないよ。それに、この部屋は独立していて宮殿内部とは行き来できないんだ。そこの扉から市街地へ抜ける通路がつながっているだけだ。すまなかったな、エルネステイ」

 ファン・アイクがどのことをいっているのか、イリスにはわからなかった。ファン・アイクはイリスの手の上に、さらに自分の手を重ねた。

「十年前――当時『冠』は、周辺諸国の若い貴族たちを積極的に招き入れ、国内の貴族たちと交流させていた。私もその一人として、主に軍事や外交について学びあっていた。私はなぜか君の伯父――リリヤの兄に気に入られてね。『冠』での私の住まいが第七離宮の近くだったこともあって、彼とともによく第七離宮を訪れたんだ。あそこには、素晴らしいものがあったからね」

「『知恵の間』。第七離宮の書庫だな」

 ファン・アイクがうなずく。「東の地の主だった書籍があそこに収められていた。君の母親とその兄は、あの国には珍しい蔵書家であり、優秀な司書だった。君の父親がリリヤを娶ったのも、彼らの蔵書が目当てだといわれているが、本当のところはわからない。あの男にとっては、自分の息子を生むための十人いる妻のうちのひとりに過ぎなかったのだと私は思うが――そういえば、君にも何度か会ったことがあるのだが」

「覚えている。もうすべて思い出した」

「そうか」ファン・アイクはうなずいた。「そうやって何度か第七離宮を訪ねているうちに、私はリリヤに恋をしてしまった。そして、リリヤも私の気持ちに応えてくれた。その頃はすでにもう、君の父親が第七離宮を訪れることはめったになかった。どうしようもない恋だということはお互いによくわかっていた。どこへもたどり着くことができない関係だということも。でも、二人ともやめることができなかった。やがてそのことは、君の父親に知られてしまった」

 そこでファン・アイクは一息つき、再び話し始めた。

「ある日、いつものようにリリヤの部屋で夜を過ごし、私は眠ってしまった。目が覚めると、私は椅子に縛られて身動きができない状態にされていた。そして、目の前に、君の父親がいた。君の父親は嫌がるリリヤを縛り、無理やり犯していた。ほかに、屈強な男が二人いて、彼らは代わる代わるリリヤを犯し続けた。おそらく特殊な『魔香』が使われていたんだろう、彼らの精力はまったく衰えなかった。凌辱は夜が明けるまで続いた。リリヤが気を失うと、薬を嗅がせ、強制的に目を覚まさせた。意識を喪失してしまった彼女は、最後には嬌声を上げるようになっていた。外が明るくなり始めた頃、ようやく責めは終わり、君の父親は私にいった。

 ――久しぶりに楽しませてもらった。この女はもう必要ない。お前にやろう。好きにするといい」

 ファン・アイクの頭が、ふっと揺れた。

「アダム!」

「ああ、すまない。大丈夫だ」ファン・アイクが力なく笑った。「そういって、君の父親は短刀で私を縛っている縄を切り、部屋を出ていった。しばらく茫然と座っていた私の前に、意識を取り戻したリリヤがひざまずいた。そして、彼女は私に手を伸ばし――」

 再び気を失いかけたファン・アイクは、がしっとイリスの手を握りしめた。

「彼女は、私に手を伸ばし、でも、反射的に、私はその手を振り払ってしまった」

 イリスの手が締め付けられた。

「リリヤは……リリヤは、そんな私を見て、微笑んだ。心底安心したような、そんな微笑みだった。そして、君の父親が置いていった短刀を、自らの胸に――」

 ファン・アイクの言葉が、途切れがちになってきた。

「私は、未だに、夢に見る。あのときのリリヤの表情。なぜ、彼女は――いや。それにしても、君はあのとき、どこから現れたんだ」

「第七離宮には、ここと同じで、秘密の抜け道がいくつかある。そのうちの一つが、あの部屋の柱時計につながっていたんだ。僕はあの日、その柱時計の中で眠ってしまっていた。気が付いたのは、朝、ソフィアが来たときだ」

「そのあとのことは、私もはっきりとは知らされていない。ただ、この件に関する君の記憶が、ある術によって封印されたこと、そして、再び『冠』の地を踏まないこと、このことは口外しないことを条件に不問に付すと、『冠』から通達があった」

 握っていたイリスの手を、ファン・アイクは自分の傷口からそっと外した。

「話は、これだけだ」ファン・アイクは、小さな扉を指さした。「そこから、街へ。そのまま、本国へ戻れ。ヴィレムには、私が、君に討たれた場合の、手紙が渡るように、してある。さあ、往け」

 イリスは、ファン・アイクをそっと壁にもたれさせると、シーツの山から降り立った。そして、ファン・アイクを振り返って、いった。

「シドルは――彼女はいったい――」

「『開く者』については……南の地の……三人の魔女に……聞け……いずれにせよ……君に……彼女は……斬れない」

「『開く者』だからか」

「違うよ」ファン・アイクは笑った。「だって……君たちは……あんなにも……仲が……良かっ……」

 沈黙が訪れた。

「アダム」

 返答はなかった。

 イリスは、部屋の隅にある小さな扉を開けた。そして、暗闇に向かって伸びている狭い通路へと、足を踏み入れた。

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エルンと灰色の路 Han Lu @Han_Lu_Han

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