新暦九九五年 十二の月 その三
「イリス、君はいったい、どの陣営の人間なんだ」
シドルは、イリスとファン・アイクから等間隔に間合いを取った場所に立った。三人はほぼ正三角形の頂点にいた。
「王弟派の刺客だったのか。私はてっきり『冠』あたりが送り込んできた間者なのだろうと思っていたのだが」
イリスは思わずファン・アイクを見た。
「彼は王弟派の刺客ではないよ、近衛隊副隊長どの」
苦笑とともに放たれたファン・アイクの言葉に、シドルは困惑の表情を浮かべた。
「では、いったい――」
「私怨だよ」
「私怨?」ファン・アイクの言葉をシドルは繰り返した。
「ああ。私は彼の母親の仇なんだ」
「そうなのか」シドルは訝し気にイリスを見た。
「それを今から確かめるつもりだった」イリスはいった。
「とにかく」シドルは抜身の剣を右手に持ったまま、左手でイリスを制した。「剣を収めろ、イリス」
イリスは剣を鞘には収めず、数歩後ろに下がった。
「メールス卿も。ここはいったんお引きください」
ファン・アイクは意味ありげな視線を、イリスとシドル、交互に送った。
「どうされました」シドルがいった。
「そして二人並んで立っていると……」ファン・アイクは言葉を切って軽く首を振ると、剣を鞘に収めた。「いや、何でもない。そうだな。この場はひとまず、シドル殿に預けることにしよう。委細は後程」
「わかりました。お怪我の具合を診させていただきます」シドルはゆっくりとファン・アイクに近づいていった。
ファン・アイクの注意がシドルの足元に向けられていることに、イリスは気が付いた。先ほどイリスが対峙したときのように、ファン・アイクはシドルの足音に神経を傾けている。なぜだ。その理由を考える間もなく、イリスの体は反応していた。
先ほどのファン・アイクに倣って、シドルの足さばきに注意を向けていたイリスは、シドルの左足が踏み切る直前の動きを察知していた。
ガキン、という音とともにファン・アイクの剣が吹き飛ぶ。
シドルの二撃目を、跳躍したイリスはかろうじて剣で受け止めた。
イリスのすぐ後ろでファン・アイクがうめく。しかし、イリスには後ろを振り向いている余裕はない。シドルが本気を出せば、今のイリスには防ぎきれないことが、彼には十分わかっていた。
「どけ、イリス」
ぎりぎりと、シドルの剣にイリスは押し込まれていく。
「奴は君の仇なんだろう」
「殺すつもりはない。ただ、何があったのか、それが知りたいだけだ」
「甘いことを」
「シドル、君はやっぱり王弟派のスパイだったのか」
「答える必要は――」
シドルの言葉が途切れた。苦痛にゆがむシドルの右手に、黒い蔦のようなものが絡みついている。
「なんだ、これは」
イリスの言葉を遮るように、シドルは剣でイリスを弾き飛ばした。
背後のファン・アイクとともに床に倒れこんだイリスは、すぐさま立ち上がり、剣を構えた。すぐそばで立ち上がったファン・アイクを、イリスはちらりと見た。左肩から背中にかけて斬られているが、深手ではない。
「『闇からのこだま』か。やはり、噂は本当だったか」ファン・アイクがつぶやく。
シドルの右上半身は、黒い蔦で覆われ、それはざわざわとあやしくうごめいていた。黒い蔦が動くたび、シドルの顔は苦痛にゆがんだ。
「なんなんだ、あれは」イリスがいった。
「彼女は『開く者』だ」ファン・アイクが答える。
「そんなものが、本当に――」
一瞬で間合いを詰めたシドルの跳躍に、ぎりぎりでイリスは反応した。ファン・アイクをかばい、シドルの剣を防いだイリスに、シドルは猛攻をしかけた。切れ目なく繰り出されるシドルの剣に、イリスは必死でくらいついてる。さらにシドルのスピードが上がり、イリスの剣が弾け飛んだ。
天井に深々とイリスの剣が刺さる。
激しい呼吸に胸を上下させているイリスの眼前に、シドルは剣の切っ先を向けた。その顔は、苦痛にゆがんでいる。黒い蔦は完全に彼女の右腕を覆いつくしていた。
「ごめん、イリス」
シドルの右目から涙があふれ、頬を伝った。
次の瞬間、シドルは剣を頭上に掲げた。
背後から振り下ろされたファン・アイクの剣先を、シドルは振り返ることなく剣で受け止め、その場でくるりと宙を舞うと、ファン・アイクの背後に降り立った。
「よせ!」
イリスが叫ぶのと、ファン・アイクの腹部からシドルの剣先が突き出したのが同時だった。
シドルが剣を引き抜き、ファン・アイクは、イリスの方に倒れ込んできた。
「エルネスティ」抱きとめたイリスの耳元で、ファン・アイクがささやく。「このまま後ろの暖炉まで動けるか」
イリスは背後を振り返った。数歩先に、暖炉がある。うなずくと、イリスはファン・アイクを抱えたまま、暖炉の方へ後退した。
「イリス、私は」シドルが血に濡れた剣を下げて、近づいてくる。「私は、違うんだ」
「マントルピースの内側にレバーがある。右側だ。合図をしたら、それを引け」
ファン・アイクの言葉にうなずくと、イリスは暖炉の前までじりじりと下がった。暖炉の火がイリスの背中を熱した。
「許して、イリス」
涙を流しながら、シドルが剣を構える。
「今だ」ファン・アイクが告げる。
イリスは背後の暖炉に手を伸ばし、マントルピースの内側にあるレバーを掴んだ。高温に熱せられた鉄の棒がイリスの手のひらに火傷を負わせたが、イリスは構わず、思いきりそれを引き下げた。
突然、イリスの足元の床が消失した。
ファン・アイクを抱えたまま、イリスはその穴の中へ落ちていった。
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