新暦九九五年 十二の月 その二
夢を見ている。
これは夢だ。
そう自覚しながらも目覚めることなく、イリスはその夢を見続けていた。
夢の中でイリスは五歳だった。
五歳のイリスは、狭い空間の中にいた。
自分の体でほとんどいっぱいになってしまう、小さな箱の中。
箱の隙間から淡い光が差し込み、膝を抱えているイリスの手に銀色の筋を作っている。
時間は早朝で、それは朝の光だと、イリスには――夢を見ている現在のイリスにはわかった。
夢の中の自分は、どうやらその場所で目が覚めたところらしい。
唐突に、イリスはその場所がどこかを思い出した。
そうだ。
ここは――。
ガシャン、と何かが床に落ちる音がして、女性の叫び声が上がった。
「リリヤ様!」
イリスは、箱の内側を押した。
大きな柱時計の下部の箱の部分から、イリスは外へ出た。箱の中には本来あるべき振り子はなく、時計の針は止まっている。
イリスのいる場所からは大きな長椅子が邪魔で、部屋の中の様子がわからない。イリスは長椅子を回り込んだ。部屋にはだれもおらず、しかし、隣の部屋から人の声が聞こえてくる。空いたままのドアから、イリスは隣の部屋を覗いた。
真っ先にイリスの視界に飛び込んできたのは、床に横たわっている母親の姿だった。白いシーツに覆われて、安らかな表情で目を閉じているその姿は、誰が見ても眠っていると思っただろう。白いシーツの半分くらいを染めている真っ赤な血がなければ。
母親のそばに、男が立っている。イリスの視線は男の足から上の方へ動き、男が右手に持っている血に濡れた短刀をなめて、男の横顔で止まった。男は誰かに向かって必死に否定の言葉を投げている。
はっ、と男が何かの気配に気づき、イリスの方を向いた。
それまで見えなかった顔の左側が見えた。男の左目には眼帯がはめられている。イリスを見て、男の右目が大きく見開かれた。その表情は、十年後に男が王兄派の秘密の会合で、成長したイリスと視線を合わせたときに見せたものとまったく同じだった。
「若様!」
視界の外から、女中姿の若い女が走り寄ってきて、イリスを抱きすくめた。
彼女の金色の髪がイリスの頬をくすぐる。その髪の匂いが、イリスに彼女の名前を思い出させた。
ソフィア。
なぜ今まで彼女のことを忘れてしまっていたのか、イリスは夢の中で訝しんだ。イリスが生まれた時からずっと、彼のそばに仕えてくれていたのに。
カラン、とソフィアの背後の床に、短刀が落ちる音がした。ソフィアの肩越しに、男が足早に部屋を出ていくのが見えた。
それから時間が跳んで、イリスはその部屋の入口に立って、ソフィアが母親の遺体に覆いかぶさって泣いているのを見つめていた。部屋にはいろんな人間があわただしく出たり入ったりしていた。ソフィアはその人たちに向かって叫んでいた。
「隻眼の伯爵が。伯爵が、リリヤ様を――」
男たちがソフィアを母親から引き離そうとするのを、ソフィアはかたくなに拒んでいる。
「若様」ソフィアがイリスに向かって叫ぶ。「若様も見たでしょう。仇。リリヤ様の――お母さまの仇。隻眼の伯爵。あいつが、あなたのお母さまを――」
そこでソフィアの言葉はイリスには聞こえなくなる。イリスの背後に立つ人物が、イリスの耳をしっかりとふさいだからだ。
自分よりも少し背の高いその人物をイリスは見上げた。
目を覚ますと、イリスは長椅子に横たわっていた。
ぱちぱちと、木のはぜる音が聴こえる。
イリスは上半身を起こした。暖炉にくべられた火は部屋を温めるまでには至っていない。部屋が大きすぎるのだ。そこは、夕方に晩さん会が行われていた広間だった。今はテーブルや椅子が片付けられて、イリスの横たわる長椅子と、少し離れて一人掛けの椅子が置かれているだけだった。
その椅子にファン・アイクが腰かけていた。眼帯をつけていない方の顔が、暖炉の火の色に染まっている。イリスが先ほど見た夢にはなかった深い皺が、その顔に刻まれていた。
「気が付いたか」ファン・アイクは暖炉の火から視線を逸らさずにいった。
イリスは無言で両足を床に降ろし、ファン・アイクの方を向いた。
「会合は」イリスは再び部屋を見渡した。
「君を運び出したあと、再開してさっき終わったよ。ヴィレム君には、しばらくのあいだ君のことは私が預かるといってある」
「僕は……」イリスは頭を押さえた。
「安心したまえ。医者が言うには、特に異常はないそうだ。ただ、せっかく気が付いたばかりで悪いんだがね」ファン・アイクは火を見つめたまま、あっさりとした口調でいった。「君にはまた眠ってもらわなければならない。ずっと、永久に」
ばちっ、と暖炉の火がはぜた。
「ひとつ教えてほしい」イリスはいった。
ファン・アイクは、そっとため息をついた。「それは君の正体――君自身の存在、それ自体が理由だよ。エルネスティ・ユーティライネン君」
「違う」イリスは首を振った。「僕が知りたいのは、あなたが僕を殺す理由じゃない。なぜあなたが僕の母を――リリヤ・ユーティライネンを殺したのか、その理由だ」
ゆっくりとファン・アイクがイリスの方を向いた。
「覚えているのか」
「さっき、思い出した」
「やはりな。それで意識を失ったか。自力であの封印を解くとは。大した子だ」軽く首を振って笑みを浮かべながら、ファン・アイクが立ち上がった。その手には二振りの剣が握られている。「今はもう、あのことを知っているのは、君の父――『冠を戴く国』の王ジグムント・ユーティライネンと、私だけのはずだったのだが」
ファン・アイクはイリスのいる長椅子のそばまで来ると、剣をイリスに差し出した。
「私に勝てば、その理由を教えてあげよう」
「なぜだ」イリスが剣に手を伸ばす。「僕を殺すつもりなら、なぜ僕の意識が戻るまで待っていた」
「私は古い人間なんだ。名のある人物の寝首を掻くなんて願い下げだよ。それに」ファン・アイクはイリスに剣を手渡すと、数歩下がって間合いを取った。「リリヤの息子と剣を交える機会を逃すなんて、そもそも私にはできない相談なのさ」
イリスは剣を抜き、鞘を長椅子に立てかけた。ファン・アイクは抜身の剣を両手で持ち、体の中央で剣の切っ先を床に付けている。イリスには初めて見る構え方だった。一瞬の躊躇ののち、イリスは踏み込んだ。ファン・アイクの左側、眼帯をつけている死角から、剣を持つ手元を狙って。
フッと、ファン・アイクの気配が揺らぎ、イリスはとっさに体を逸らした。イリスの眼前をファン・アイクの剣先がかすめる。イリスはそのまま重心を落とし、体を反転させてファン・アイクの間合いから逃れた。二人の位置が入れ替わる。
「よくかわしたね」ファン・アイクは、先ほどと同じ構えで立った。「剣は誰に?」
「レオ・ニスラ」イリスの背中を汗が伝う。
「鉄の腕か。なるほど」
再びイリスはファン・アイクの左側に踏み込む。今度もイリスの太刀筋は読まれた。右手から襲ってきたファン・アイクの切っ先をかろうじてかわし、体を反転させる。両者は最初の位置に戻った。
「なぜ見えていないはずの左側への攻撃に反応できているのか、不思議だろ」
イリスはそれには答えず、背後の長椅子に立てかけてあった鞘を取り上げた。そしてファン・アイクに向き直ると右手に持った鞘の先を床の上にそっと下ろした。ファン・アイクの右目が細まる。
イリスの右手から剣の鞘が離れた。ゆっくりと鞘が床に向かって倒れていく。ファン・アイクの右目が閉じられていく。ゴトン、と鞘が床に落ちた瞬間、イリスは大きく踏み込んだ。ファン・アイクの反応が遅い。かろうじて剣で防いだイリスの突きはファン・アイクの左頬をかすめ、一筋の赤い傷を残した。再び両者は位置を変え、間合いを取った。
だん、だん、とイリスは床を踏み鳴らした。
「足音を聞いて、僕の攻撃を予測していたんだな」
「さすが、あの男の息子だけのことはある」
「剣を取ったのは僕くらいだよ。ほかの兄弟はからっきしだ」
「だとしても、まさか君をレーン家に送り込んでくるとは」
「おそらく王弟派にも、別の人間を入り込ませているはずだけど。それで? 僕を殺そうとしているということは、最終的に王兄派は我が国に恭順するつもりはないということでいいのかな」
「私たちは国力をつけて、いずれは大国『冠』を打倒する。それが私の夢だ。そのためにはまず、王弟派を倒し、国をひとつにまとめなければならない。だが、そこには『冠』の第七王子である、君がいる場所はないんだよ」
「残念だけど、アダム」イリスは首を振り、剣を構えた。「あなたの剣は見切った。あなたに勝ち目はないよ」
「それはどうかな」ファン・アイクはイリスの背後に視線を向けた。「もうそろそろ――」
イリスの背後で扉が開き、足音が近づいてきた。イリスは剣先をファン・アイクに向けたまま、その人物を振り返った。
「これはどういうことだ、イリス」
そこには、剣を手にしたドレス姿のシドルがいた。
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