新暦九九五年 十二の月 その一
その夜、月の光は淡く、部屋のほとんどは闇に覆われていた。壁際の暖炉の熾火から発しているかすかな熱が部屋をほんのりと温めている。
「僕からは以上だ。詳細はこれに」
イリスは椅子から立ち上がり、手にした書状を部屋の隅に闇の中に差し出した。
闇の中から手が伸びて、書状を受け取る。
「確かにお預かりいたしました」
「影」イリスは再び椅子に腰かけた。「お前に尋ねたいことがある」
「私めにわかることでしたら何なりと」
「父に仕えて、どれくらいになる」
「かれこれ二十年以上になります」
「では、僕の母のことは知っているな」
一瞬の間が、闇の中で生じた。
「直接お目にかかったことはございませんが」
「僕がいっているのは、母の死についてだ」
「残念ながら」影は今度はよどみなく答えた。「私はそのことについては、ほとんど存じ上げておりません。当時私は王城ヴィーレキッサにて務めさせていただいておりましたので」
「では、お前の知っていることだけでいい。すべて話してくれ」
暗闇の空気が揺らいだ。
「影」
「それでは、恐れながら」短い嘆息の気配に続けて、影は語った。「今から十年前、殿下の母君、リリヤ・ユーティライネン様は何者かに殺害されましてございます。遺憾ながら、犯人は未だ見つかっておりません。私が申し上げられるのはこの程度のことでございます」
「母が殺されたのはどこだ」
「第七離宮――リリヤ様や殿下が住まわれていた屋敷です」
「影が第七離宮を訪れたことは」
「ございません」
「隻眼の伯爵とは誰のことだ」
「存じません」
イリスはそこでいったん口をつぐんだ。影の返答が早すぎる。しかし、イリスはそのことを口にはせず、こういった。
「僕は、母が死んだときのことをほとんど覚えていないんだ。いや、ほとんどどころか、その前後の記憶がすっぽりと抜け落ちてしまっている」
「人は、心に大きな傷を負うと、それを忘れようとする力が働くと聞きます。殿下の場合も、恐らくは」
「僕もそれは聞いたことがある。しかし、これほど完全に記憶が抜け落ちてしまうものなのか。だとすると、いったい僕は何を見たんだ」
暗闇からの答えはない。
「いや、この件はいい。取り急ぎ、報告を急いでくれ」
「わかりました。では、私はこれにて」
ふっ、と影の気配がかき消えた。
「先王が没してから半年、ようやく戴冠式の目途が立ったか」
馬車を降り、周囲に人がいないことを確認してから、イリスは隣を歩くヴィレムに低い声でいった。
「この国では、司祭から冠を授からないと正式な王とは認められないことになっていますから」
ヴィレムも声を落として、イリスに答える。
小石の敷き詰められた小道を歩くイリスの横顔を夕陽が照らす。数歩後ろに控えるレオの足音が止まり、イリスとヴィレムが振り返る。馬車が二台、背後の馬車回りに停車した。どちらも客室に凝った意匠が施されている。
「フリート家ですな」
「王弟派の急先鋒か」
先頭の馬車から、真っ赤なマントを羽織った壮年の男性が降り立った。
「あれが、現当主のテオドルス・ファン・フリートです」
テオドルスに続いて、フードを目深にかぶった小柄な人物が馬車を降りた。
「おや」ヴィレムが目を細める。「これは珍しい」
イリスの視線を受けて、ヴィレムが答える。
「シャーク・デ・ヘール。テオドルスの側近で、魔術師です。元は『月が照らす国』の上級魔術師でした。滅多に外には出てこないのですが」
「確か、テオドルスも『月』の外務尚書だったな」
「ええ。その手腕を買われて、『月』が『太陽』に併合されてからも、外務大臣として重用されています」
イリスたちは再び歩き出した。
「それで、デニスの――王兄の病状はどうなのだ」
「安定しているようです。これで王弟派の動きを抑え込めればいいのですが」
やがて三人は、長い前庭を渡り切り、巨大な宮殿の入り口で立ち止まった。
「レオもここは初めてか」
イリスが振り返る。
「はい」
「どうだ」
「噂にたがわぬ荘厳さ、まさに『太陽宮』の名にふさわしい。しかも、なかなかに凝った造りをしておりますな。敵との攻防は想定していない代わりに、様々な仕掛けが施されているようです。ここに来るまでに、内部からの抜け道を二か所見つけました。恐らく、市街地へ抜ける道もこの地下に掘られているはず」
意外な表情を浮かべるヴィレムに、イリスがいった。
「もともとレオは築城家の家系だ。彼の曾祖父は王城ヴィーレキッサの建築に大きく貢献したと聞いている」
「それは、初耳でした」
「私はノミを持つよりも、剣を持つほうが性に合っていたみたいです」
「なるほど」ヴィレムはうなずいた。「レオ殿は騎士になり、そのおかげで、殿下の父上は命拾いをされた。もともとそういう運命だったのでしょう」
「相変わらず、ヴィレムは運命論者だな」
「殿下は、違いますな」
「もしも運命というものがあったとしても、人はそれを変えることができると、僕は思っているよ」イリスは微笑んだ。「でなければ、人間は何のために生まれてきたのかわからないじゃないか」
ヴィレムは、その話はもう十分、といった風情で両手を広げると、入り口に立つ衛兵に招待状を手渡した。
「晩さん会にはまだ時間がありますが」
「とりあえず」イリスは頬を緩めた。「彼女の様子を見に行こう」
その部屋は本来男性が入ることはできない決まりだというのを、本人がいいといっているのだからいいではないかとひと悶着あったあと、ようやくイリスたち三人はその本人のいる控えの間に入っていった。
「まったく」部屋の中央に置かれた一人掛けの椅子に憮然とした表情でシドルが腰かけていた。「こういう場所の人間はどうしてこうも頭が固いんだ」
部屋にはシドルのほかに数人のメイドたちが立ち働いている。
「レーンさん、やめるなら今ですよ」
シドルがヴィレムにいった。
「いやいや。とてもお似合いですよ、シドル殿」そういってヴィレムは両手を広げた。「それに、これは陛下たってのご希望なのですから。国王陛下直属の近衛隊副隊長としては、お受けしないわけには参りますまい」
「まあ、たまにはこういうのも悪くはないけど」薄紫色を基調としたイブニングドレスの裾をひらひらともてあそびながら、シドルがいった。「でも、どうなっても知りませんよ。晩さん会が血の海になるかも」
「恐らくそんなことにはならないでしょう。貴族の男どもにそんな度胸のある奴はおりませんよ」
「私もできるだけ抑えておくけど保証は――」シドルは、イリスを怪訝な顔で見た。「どうしたの、怖い顔して」
「いや」イリスは慌ててシドルから視線をそらした。
「どうかな、これ」
シドルは立ち上がって、くるりと回った。
「ああ、うん。悪くは……ない」
「悪くは……ない?」
そういって、シドルはイリスの顔を覗き込んだ。
観念したように、イリスはいった。「似合ってるよ」
「ありがとう」シドルは微笑んだ。
メイドの一人がシドルの肩に手を置いて、椅子に座らせた。
「さあさあ、まだ御髪とお化粧が残っていますから」
「ええー。まだあるの」うんざりした口調でシドルがいった。「もういいよ、あとは適当で」
「何をおっしゃってるんです。今でも十分お美しいですけれど、お嬢様はもっともっとお美しくなられますよ。観念してください」
あきらめたように肩をすくめ、シドルはイリスたちに手を振った。
「では後程」
ヴィレムがいって、三人は部屋を後にした。
部屋を出て、レオはイリスに小声で告げた。
「あのような服をお召しになっていると、本当にそっくりですな」
イリスは無言でうなずいた。
食器を下げるためにせわしなく動き回るメイドたちを視界の隅に捉えながら、イリスはバルコニーに移動した。テーブルの方では、ヴィレムが王兄派の地方領主たちと話し込んでいる。少し離れた場所で、シドルは地方領主の妻たち数人と歓談している。結局シドルが憂慮していた事態は起こらず、時折笑顔を見せながらシドルは女性たちと話し込んでいる。しかし、イリスはときおりシドルの表情に緊張の影が走るのを見逃さなかった。
やがて二人の男を伴って、ヴィレムがやってきた。
「息子のイリスです」
ヴィレムがイリスを二人の地方領主に紹介した。
「先だってのユリウス・バウマン討伐は、イリス殿が指揮されたとか」
「まだお若いのに、なかなかお見事な手腕。将来が楽しみですな、ヴィレム殿」
二人の賛辞にイリスは礼を述べ、ヴィレムは「まだまだですよ」と謙遜した。
「ところで」地方領主の一人が声を落としていった。「例の会合ですが」
イリスはそっと周囲をうかがった。晩さん会が終わり、王弟派の主だった人間が会場から退出してるが、会場にはまだ多くの人々が残っていた。
ヴィレムも小声で答えた。「そろそろ移動してもいい頃でしょう」
タイミングをずらして領主たちがその場から離れていき、頃合いを見計らってイリスとヴィレムもあらかじめ指定されてた場所に向かった。
それは宮殿の奥まった場所にあった。一見、廊下の突き当りで行き止まりに見える壁の一部をヴィレムが押すと、人が一人通れるだけの小さな入り口が現れた。ヴィレムの後にイリスが続いて、その入り口に入っていった。
隠し部屋は広く、二十脚ほどの椅子が並べられており、すでにほとんどの席に人が座っている。イリスとヴィレムは一番後ろの空いている椅子に腰かけた。
しばらくすると、正面の分厚いカーテンから、ひょい、と顔がのぞいた。その顔には白粉が塗りたくられ、目の周りは黒く縁どられていた。鼻の頭は赤く塗られ、唇の周りにも真っ赤な口紅が塗りたくられていた。真っ赤な服を着て、頭をすっぽりと包み込む奇妙な帽子を被っている。
「おやおや、皆さんお揃いで」その男はおどけた調子で、しかし、複雑なステップを踏みながら、カーテンの影から姿を現した。「なかなか見上げた心がけ、結構結構」
男はまるで舞台の登場人物のように大げさなおじぎをすると、抑揚をつけて語り始めた。「さあさあ皆さん、お待ちかね。ようやく新しい王様の、戴冠式の始まり始まり。しかしこのまま王弟派、黙っているとは思えない。今はなんとか持ち直してる、王兄様の容態も、これからいかが相成ります事か、わかったものではありません」
流れるような男の口上に、戸惑う者もいれば、苦虫を嚙み潰したような表情をする者、にやにやと皮肉な笑みを浮かべる者、怒りで顔を赤らめている者など、皆、様々な反応をみせていた。
「そこでこうして皆さんは、これからいかがしたものか、雁首揃えて無い知恵絞り、ああだこうだと侃侃諤諤、議論百出、談論風発。結果、良い目が出ますやら、はたまた無駄に時間だけ、遅疑逡巡のまま虚しくも、過ぎていくことになるのやら。これ、ひとえに皆さんの、お心次第でございます」
「その辺にしておけ、道化」
カーテンの後ろから声がして、男がひとり立ち現れた。
椅子に座っていた者たちが、いっせいに立ち上がる。イリスとヴィレムもそれに倣って立ち上がった。最後列のイリスの視界は人々の背中で遮られている。
「ようやく本日の主役のご登場と相成りましたか。いやはや、皆さんもう待ちくたびれておられますよ」道化と呼ばれた赤い服の男がいった。「それでは、僭越ながらご紹介させていただきましょう。王兄派の中心人物でありながら、決して表舞台には出てこない、謎多き人。影の宰相とも呼ばれるのがこのお方、メールス伯爵アダム・ファン・アイク様でございます」
「もうよい、道化」
人々の間から、道化が深々と首を垂れ、部屋の隅に下がって跪くのが見えた。
「皆さん、失礼いたしました」ファン・アイクがいった。「どうぞ、お座りください」
人々が席に着き、イリスはようやくその男――アダム・ファン・アイクの顔を見ることができた。その瞬間――正確にいうと彼の左目を覆っている眼帯を目にした瞬間、イリスの脳裏に再びあの映像が浮かんだ。
血に濡れたシーツにくるまり横たわっている、イリスの母親。
若い女性が、母親の遺体の上に覆いかぶさり、叫ぶ。
――仇。
「皆さん、既にご存じのことと思いますが」ファン・アイクが話し始めた。「先日のユリウス・バウマン更迭の一件以降、王弟派は徐々に勢いを無くしてきています。今日お集まりいただいたのは、今後の我々の方針を確認させていただき、今一度我々の団結を高めるためです。その前に」
ファン・アイクが最後列のイリスの方を向いた。
「今回のユリウス討伐で大きな働きをしていただいた、我々の新しい、若き仲間を――」
イリスとファン・アイクの視線がぶつかった。ファン・アイクの右目が大きく見開かれ、表情が凍りついた。と同時に、イリスの頭の中に、声が響く。
――隻眼の伯爵。あいつが、あなたのお母さまを――。
イリスは、ファン・アイクの言葉を最後まで聞くことができなかった。目の前が暗くなり、自分の体が床に倒れ込む音を、イリスは薄れゆく意識の向こう側で聞いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。