新暦九九五年 十一の月 その二

 東の塔の最上階にあるユリウス・バウマンの寝室の前には二人の騎士が控えていた。

 長く狭いらせん階段を上りきり、姿を現したイリスたちを見て、バウマンの騎士たちは即座に誰何した。

「なんだ、お前たち――」

 レオとシドルが瞬時に間合いを詰める。

 狭い通路で剣を抜こうとして手間取っている騎士たちは、レオとシドルに喉元を殴打され倒れた。

 レオがそっと扉を開け、中をうかがう。

 部屋は明かりがついており、物音はしない。

 レオに続いて、イリスとシドルが部屋に入った。イリス配下の騎士たちは扉の前で警戒する。

 部屋の中、扉の脇に置かれたチェストの前に、小太りの男が立っていた。ガウンを羽織り、グラスに水を注いだところだった。ガウンの下には何も着ておらず、だらしなく弛緩した腹部があらわになっている。

「誰だ」

 男はイリスたちに気付くと、眉間にしわを寄せた。

「ユリウス・バウマン殿ですな」

 レオの言葉には答えず、ユリウスはイリスの方を向いた。

「お前は確か――最近レーンのところに入り込んだ孺子だな」

「先の婚礼以来だな、ユリウス」

 ぶしつけなイリスの言葉にユリウスの表情はさらに曇り、不安げな視線を扉の方へ向けた。「貴様ら、こんなことをしてただで済むと――」

「ただで済まないのは貴様だ、ユリウス」イリスがいった。「『目の国』の高官たちの身柄はすでに抑えた。禁制品『魔香』の製造と他国への密売、さらに得た金で何をしようとしているのか、証拠はつかんでいる。あきらめろ」

 ユリウスの顔はみるみる赤黒くなっていき、全身を震わせると、持っていたグラスを床に叩きつけた。グラスは砕け散り、水が飛び散った。

 イリスの背後で、何かが動く音がした。イリスが振り返ると、部屋の奥に天蓋付きの大きなベッドが置かれているのが目に入った。イリスはベッドの上に人の気配を感じた。

 ベッドに近づいていくイリスの後ろに、シドルが付き添う。

 ベッドの上には、全裸のアマンダが横たわっていた。スカーフで後ろ手に縛られ、胎児のように体を丸めている。頬には、ぶたれた跡がくっきりと赤く残っており、唇からは血がにじんでいる。

 イリスの背後でシドルが息を飲む気配がした。

「きさま」

 鋭い殺気とともに剣に手をかけてユリウスの方へ振り向くシドルの背中に、イリスは叫んだ。

「シドル、よせ!」

 ガキン!

 金属と金属がぶつかり合う音が部屋に響く。

 レオの左手の義手がシドルの剣を防いでいる。

「なりません」

 首をゆっくりと振るレオに、シドルは力なく剣を下ろす。

 イリスは片膝をベッドの上に乗せ、アマンダのスカーフをほどいた。

 アマンダはようやく我に返ったといった表情で、イリスを見上げた。

 アマンダの瞳が大きく開かれる。

「イリス?」

「大丈夫だ」

 シーツを体にかけようとしたイリスから逃れるように、アマンダは半身を起こした。

「イリス。ごめん」アマンダは首を左右に振りながら、両手で体をかばうようにしてうなだれた。「ごめんね。イリス。ごめんね」

 イリスは戸惑い、立ち尽くした。イリスにはアマンダに声をかけることも、うなずくことも、首を振ることもできなかった。イリスにはアマンダが誰に対して、何に対して謝っているのか、わからなかった。

 突然、ばっ、とイリスの視界が白いものに覆われた。

 イリスの眼前で、シーツが舞う。

 赤い血のついた、真っ白なシーツが。

 次の瞬間、イリスの視界が切り替わった。

 ――仇。

 イリスの耳に、声が響く。

 目の前に、以前夢に見た光景が再び顕現した。

 母親の遺体の上に覆いかぶさり、イリスに叫んでいる女性。

 ――仇。お母さまの仇。

 夢と違って、今度はその女性の声がはっきりとイリスに聞こえた。

 ――隻眼の伯爵。あいつが、あなたのお母さまを――。

「イリス! 窓!」

 シドルの叫び声に我に返ったイリスの眼前に、シーツを身にまとい、開いた窓の枠に足を乗せたアマンダがいた。

 アマンダはまっすぐに窓の外を向いたまま、生気のない瞳を動かしてイリスを見た。

 とっさに駆け寄り、伸ばしたイリスの手がシーツをつかんだとき、アマンダの姿は視界から消えた。

 そしてイリスの腕の中には、血のついたシーツだけが残された。


「イリス、聞きたいことがある」

 シドルがいった。

 アマンダの遺体を城内の彼女の部屋に運び込んだあと、イリスたち三人は城の中庭にいた。

 これからまたレーンの屋敷までユリウスと『目の国』の高官たちを連れて移動しなければならない。出発の準備に動き回っている騎士たちにイリスは視線を向けていた。

「この襲撃は周到に準備されていたように見える。城への侵入も内部からの手引きがあったからまったく抵抗がなかった。そもそも、ユリウスの背信行為の証拠と今回の取引の情報はどうやって得たんだ。ユリウスの首を押さえるために、アッペル母娘をバウマン家に送り込んだのか」

 相変わらず無言のままのイリスの前に、シドルは立った。

「答えろ、イリス」

「その通りだ」

「そして君は、ユリウスがどういう人間かも、知っていたんだな」

「知っていた。当然だろう。ユリウスの尻尾をつかむため、僕たちはかなり前から、この計画を練って――」

 パシン、とシドルがイリスの頬をぶった。

 反射的に剣に手を伸ばしたレオを、イリスが手で制した。

 そのまま動かないイリスに、シドルがいった。

「わかってる。どうやら君は、レーン家の嫡子という役割以上のものを背負わされているようだ。たぶんそのなかには、現国王の正当な命脈を保つという使命も含まれているのだろう。それに今回のような不正はたださなければならないことも理解できる。君の立場はわかる。でも、それとこれとは話が別だ」

「わかる?」それまで視線を逸らしていたイリスが、挑むようにシドルをにらみつけた。「僕の何がわかるっていうんだ。いったい僕にどうしろっていうんだ。君に僕のことなんてわかるはずがない」

 シドルは無言でイリスを見つめた。

「じゃあ聞くが、シドル。君は王弟派に繋がっているんじゃないのか。今回の計画も彼らに伝えているんだろう。だから僕たちは直前に計画の変更を行ったんだ」

「私が『月が照らす国』の出身だってことは知ってるだろ。確かに私は『月』の人間たちと定期的に連絡を取っている。でも、『月』の生き残りがすべて王弟派なわけじゃない。私が疑われていることも知っている。でも、私は王弟派のスパイじゃない。それはいつでも証明できる。イリス。話をそらさないで」

「もういい」

「イリス」

「黙れ」

「じゃあ、今度は私が聞く。イリス。君はなぜそんなに怒っているんだ。いつものイリス・レーンらしくないよ」

「僕が――。僕が、怒ってる? 僕は――」

 イリスは次の言葉を発することなく、口をつぐんだ。

「まったく、らしくないよ」

 助けを求めるように、イリスはレオを見た。レオはシドルにいった。

「ユリウスの様子を見てきます、シドル殿」

 シドルがうなずくと、レオは立ち去った。

「僕は……」

 イリスはうなだれた。

「僕はどうすればよかったんだ」

「わからない」シドルがふっと息を吐いた。「それは誰にもわからないよ、イリス。私がいえるのは、ただ、後悔しないように生きてくしかないっていうことだけ」

 イリスは、唇をかんだ。

「イリス、こっちを向いて」

 足元に目を向けたまま、イリスはシドルの方を向いた。

「ぶって悪かった、イリス」

 シドルはイリスの頬に手を伸ばした。

 イリスはシドルの手をつかむと自分の頬から、そっと外した。

 ふたたびイリスは顔をそむけたが、シドルの手はつかんだままだった。

 自分の手を握るシドルの手にそっと力が込められていくのを、イリスは感じていた。

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