16

 高台の国道から外れ、曲がりくねった道を下りながらしばらく走ると、僕らは海辺の小さな集落に着いた。

 それは、砂浜の横のちょっとした高台に、数十件程の家々の立ち並ぶだけの、極々小さな集落だった。僕は町内に入るとバイクのスピードを緩め、サキの出す指示のままに、何度か角を曲がった。

 町内の通りには、まったく人気が無かったが、時々、テレビの音や年老いた人の声が聞こえてくる家もあった。閑散とはしているが、さすがにここには誰も住んでいないわけではないようだった、――いや少なくともマイはここにいるはずなのだが。そう思いながら、僕は言われるままにバイクを走らせて、——こんな小さな町ではあったが、ぐるぐると回っているうちに、僕は今何処をどう走ったのか訳が分らなくなっていた。

 もう少しでたどり着きそうなのに、最後にどうしても思い出せない言葉のように、喉元まででかかっているのに話すことができない言葉のように感じられる、――最後の迷い道を僕は行くのだった。

 自分一人ではもしかしてたどり着けなかったかもしれないこの場所を、サキと一緒に、僕はここまで来た。……

 そして、

「ここよ」とサキに言われた場所で、僕はバイクを止めたのだった。


 そこは生垣に囲まれた、大きな、いかにも由緒がありそうな構えの家だった。大妻と言う表札がかかった、開け放しの木製の門をくぐれば、芝生になった広い庭にはところどころに花をつけた盆栽が沢山置かれていた。その奥には大きな松の木の葉と、百本くらいははありそうな、夏の盛りに咲き乱れたひまわりの花が、太陽の光をさんさんと浴びて、輝いていた。

 広い庭の中にぽつんと言った感じで建っている、家屋は、古い木造の平屋だったが、良い材料でしっかりと造られた家だったのだろう、逆に古さが味になっている、良い感じの建物だった。その縁側には何か薬草のようなものが置かれ干されていた。風鈴が風に揺れて音を立てていた。家の横には古びた大きな水瓶が置いてあり、その中から蛙が出てきて横の草むらの中に飛び込んだ。

「絵に描いたような家でしょ」とサキが言った。

「ああ」と僕は言った。

 僕らはバイクから降り、脱いだヘルメットはそのままバイクにかけて、中に入ってゆく。

「ごめんください。すみません」と言ったのはサキ。

 建物の奥で、何やら動くような音がした。

「すみません」と僕も言う。

「――はい」と奥で、男の声がした。

「いるみたいだね」とサキに向かって僕。

 縁側の部屋の後ろの襖が半分くらい開き、中からその狭いすき間を無理やり抜けるように、四十代後半位に見える男が出てきた。彼は僕らを見つけると、久々の友達にあったかのようなうれしそうな笑みを浮かべた後、こちらに向かって歩いてきた。

 ひどくごつい顔をしている男だった。なんと言うか、土を思わせる顔をしていた。その男の顔は、掘り出した、芋か蕪かと言うような、無骨なものだった。しかし、彼のそのたたずまいは、上品な、いや、高貴と言えるほどの雰囲気を感じさせた。大地が、自然が彼の中にあるように思えた。彼は本物だと僕は直感的に思った。

 この地で、海と大地に根ざした、世界と、本物のつながりを持つことの出来ている男。中途半端な都会で育った僕にはなることの出来ない種類の男だ。彼がマイの夫なのだろうか。と、思うと、僕の考えていることを察してか、

「彼がそうよ」とサキが教えてくれた。

 男は縁側を降りてサンダルを履き、僕らのところに歩いて来た。

「サキさん、いらっしゃい。マイも待ってましたよ、そして……」男は僕見て「この方が昨日の電話で聞いたユウさん?」と言った。

 サキは頷く。

「はじめましてユウです」と手を差し出しながら僕。

「大妻です」と強く僕の手を握りながら男は言う。「マイ、出ておいで、お客様がお着きだよ」

 すると、——家の奥から足音が聞こえ、それはこちらに近づいて来た。

 半開きだった襖がさらに開き、中から出てきたのはマイであった。

 彼女は僕らのことは目に入らないかのように、遠くを見ながら縁側に坐り、小さな声で何か歌を歌っていた。

「マイ!」と叫ぶように僕。

 彼女は、僕の方を向き、目があうと、にっこりと笑った。僕は、一瞬その目の奥に吸い込まれそうになった。

 黒く光を吸い尽くすようなその目。僕は、知らないうちにその目に魅入られて、——その場に固まる。

 大妻と言う男が、

「さあこちらへ」と、僕の肩を叩いて、僕を我に返さなければ、そのまま、その場で永遠に動けなくなってしまっていただろう。「古くて冷房もない家で申し訳ないですが、ここならば過ごしやすいと思います……」

 僕は大妻に勧められるままに、縁側、マイの隣に座る。

 その後、続いて、サキも僕の横に座ろうとしたが、僕が腰を下ろした瞬間に、突然立ち上がり、建物の中に入っていったマイを見て、そのおろしかけた腰を止める。

「どうしたのマイ、手伝うわよ」

 サキは靴を脱ぎ、縁側に上がる。

 僕もそれについて行こうかと。腰を上げかけるが、

「ユウさん、大丈夫ですよ。マイはお客さまに何かだそうと思って中に行っただけですので、——我が家ではマイの役目なんですよこれは。……サキさんは一度でそれを知っておいでで、……何を出すかマイと中で話しております。ユウさんは、ここが一番涼しいのでここにおればよろしいのでは。なにすぐに帰ってきますよ」と大妻が言う。「それまではこれでもお飲みになりますか」

 縁側に置いてあったお盆の上に乗っていたコップに、そのそばに置いてあった大きなヤカンから、この家の主である大妻と言う男は麦茶をついだ。

 ヤカンの中では氷のカラカラと言う小気味良い音がして、注がれたよく冷えた麦茶はとてもおいしかった。かすかに吹く風が風鈴をならし、その一瞬の後にその風が僕の汗を飛ばす。

 海の波の音が聞こえた。太陽が芝生を明るく照らしていた。白い鳥が隣の家に急降下して、何かをくわえてまた空に昇っていった。

 昼を過ぎ、気温はますます暑くなって行っていたが、家のひさしの濃い影の中にいた僕らのまわりは、東京のビルの中で、エアコンの風に吹かれているよりもずっと過ごしやすかった。

 しかし、ここに来るまでのバイクで、散々太陽に照らされていた僕は、ひどく喉が渇いていて、出された麦茶をあっという間に飲み干してしまう。すると、空っぽになったグラスに、大妻はすかさずもう一杯の麦茶をついでくれた。

 その時、塩の香りのする風が、正面に、垣根の向こうに見える海から吹いて来た。ぐっしょりと背中に掻いていた汗が、一気に、引いて行くのが感じられた。

 なんとも、心地よい、風、——場所であった。この夏に、この縁側以上に過ごしやすい場所なんてないと思えるような。

 しかし、大妻は、こんな外に僕を座らせていることに恐縮しているようで、

「今日はまったく暑いですね。こんな日にわざわざ来てもらって申し訳ありませんでした。昨日なんかはもう少し日も陰って過ごしやすかったのですが」と言うが、

「いえ……この縁側は、エアコンの中にいるよりよっぽど気持ちが良いです」と僕は本心からこたえるのだった。

 すると、男は嬉しそうに笑った。つられ、僕も笑い……。

 そして、一瞬の沈黙のあと、

「もう三年になります」

 突然、大妻は話題を変えるのあった。それは、マイがここに来てからの時間に違いなかった。

「ええ……」

 僕は相づちを打つ。

「出会ったのはマイの母親が、彼女を、この先の、あまり大きくない砂浜に海水浴につれてきた時のことでした。あの時も暑い夏でした」

「僕はその頃は関東にいて……」

「ユウさんはこっちの人ではない?」

 僕は頷いた。

「そんな感じがします。……いや悪い意味ではないですよ。この地方にずっといられる人ではないような都会的な雰囲気だなと思えたということです」

「いや……都会よりも」と僕。「ここは良いところですね」

 大妻は少し嬉しそうに笑いながら、

「何もない田舎で」と言う。

 僕は空を見上げた。青い空に白い雲。それだけで良かった。たぶん、それ以上ではいけなかった。ここにはそれだけが必要で、それ以上があってはいけなかった。

 そんな僕が顔を下ろした瞬間に合わせて、

「話を戻しますと……マイは海水浴場で少し困ったことになりまして」と大妻。

「ええ…」と相槌を打つ僕。

 すると、

「私らは……この辺の青年団はボランティアで監視員やってるもんで……いやこの辺では四十過ぎても青年団なんですよ」と笑い顔ながらも真剣な表情の大妻が言った。「……マイは砂浜で引き付けを起こしたみたいになって横たわり、それは苦しそうなありさまでした。あわてて私はおぶって医者につれてゆこうとしましたが、あれの母は『違うんです』と言うんです」

「違うんです?」

「つまり、これは病気とか怪我とかじゃないと言いたかったのだと思います。『大丈夫です。すぐ治ります』と。……放っておいてほしかったかもしれません」

 僕は少し顔をしかめた。

「……あれの母を、少しひどい人だと思ったでしょ。苦しむ娘をそのままにするなんて」と男。

 僕はあいまいに頷く。

「いやいや、娘の幸せを願わない母などいません。でもそのやり方は人それぞれなので、他の人からみたらおかしく見えることもあるかもしれません」

 僕は、また、あいまいに頷く。大妻は、僕の承諾しかねているような顔に向かって、やさしく微笑むと言う。

「人の心の中はわかりません。でもそれならば、できることをするだけです。……私にできたのは、目の前の苦しんでいる人を少しでも環境の良い所につれてゆくことだけでした」

 僕は大妻の顔を見た。良い顔だった。地に根差し、何千年、何万年ももこの自然と正面から向かい合って生きていた者の末裔と思わせる、複雑で高貴な顔であった。大妻は話を続けた。

「母親にはたぶんその発作が何時終わるのか分かってたのでしょう。その頃、私の車まで運び込んだら、その頃に、マイの発作らしきものは収まりました。……今でもたまにありますが、そういうのが当時は特に多かったのです。それが母娘の日常だったのです」

「はい…… と言って僕は頷くが、そのあとは何も言わずにただ頷き返す大妻に、僕は自分が何か答えることを求められていると気付きがらも、その言葉がどうしても出てこないでいると、――ちょうどタイミング良く奥の部屋から物音が聞こえた。

 振り向くと、

「スイカができたわよ」と言うサキの声。

 お盆一杯に切り分けたスイカを載せた彼女の横には、にこにこと微笑んだマイがいた。

「……どこからどう切って良いか分からないような大きなスイカだったんだけど、マイは大したものね、こう言う良いとこ住むと慣れたものね、迷いも無くスパっと切り分けたわ。ねっ……」とマイを見ながらサキ。

 マイは嬉しそうに頷く。二人は僕と男の間にお盆を奥と、分かれて、マイは男の向こう側、サキは僕の横に座った。

「お待たせしました」とサキ「……感動したわ。井戸水で冷やしたでっかいスイカなんてものが日本にまだあるとは思わなかったわ」

 鮮やかな赤い色をした水々しいスイカは、近くに置いた僕の手に冷気が伝わってくるほど冷たかった。風が吹き程よい甘い香りが僕のところまで漂ってきた。

「二人で何を話してたの」と、少しきびしめの表情となっていた僕の顔に気づいて、少し顔に不安の表情を浮かべながらサキ。

 僕はあわてて言う。

「いや、ここなら夏でも冷房いらないって。夏の暑さが楽しめる場所だって」

 男も話を合わせてくれて、

「こんなところでもほめてくれて嬉しいですよ」

 すると、サキは男の方を見ながら言った。

「私もマイに言ってたのよ。こんなところに住めて最高じゃない。あなたは運がいいわよって」

「……私が頼み込んでここにいることになったのですから、気に入ってもらえてると良いのですが、なあマイどうなんだい」

 男は嬉しそうな表情で、マイの方を向いて言った。

 マイは、また、子供のように無邪気に笑いながら、男の耳元に口を近づけて、何かを言った。僕には、マイが何を言ってるのかは聞き取れなかった。それは、ずいぶんと小さな声だったせいと言うのもあるが、子音が多い小鳥の鳴き声のようなその声は、まるで言葉になっていないようにも聞こえた。

「みなさんが時々遊びに来てくれるならばここは最高だそうです」と男が言う。

 その横の、マイは、はにかみながら頷いた。その様子を見て、僕は少し幸せな気分になりながら、冷たいスイカを食べた。それは、甘く、爽やかで、みずみずしい果汁に満ちていた。

「私もいただくわ……おいしい」とスイカを食べながらサキ。

「こういうの……なんていうか……こういう日本いいですね」と僕。

「ええ、でも……」と男。

「でも?」

「いつまで続きますかね」と言う男の顔は、この時だけ少し悲しそうだった。「都会と比べるとゆっくりですけど、この辺もずいぶんと変わりました」

 しかし、その元気ない言葉に、

「大丈夫ですよ」とサキ。「大妻さんとマイのような人がいる限りは大丈夫よ」

 すると、

「そうですね」と男。「頑張らなければ」

 男はマイの肩をポンと軽く叩く。マイは嬉しそうに顔を男の胸にすりつけていた。二人はとても幸せそうだった。それはとても美しかった。

 それを見て、――このまま続けば良いな。と僕は思った。この夏が永遠に、続けば良い。この心地よい木陰で、光る庭木を眺めながら、仲間と一緒にすごす休日が、ずっと続けば良いと。――宇宙はこのために作られたとさえ、その時。僕には思えた。この安らぎを得るために宇宙は百億年以上の時を刻んできたと思えた。……

 しばし、みんな無言になった、波の音が聞こえた、遅れて風鈴の音。青い空、白い雲が高く流れた。僕はその空の向こう、遠い宇宙を思いながら、目をつむると、自然と昔のことが思い出されてくる。

 ——人気のない平日のクラブSで踊るマイの姿。それは、音のない記憶だった。僕が横にいるサキから離れ、マイの方に歩いていこうとすると、彼女は少しむっとしたような顔になった。それでも僕が歩き始めると、サキの顔は少し悲しそうになった。

 ――いや違うよ、僕は。マイが何か言いたそうだから、彼女に近づいているんだ。

 こちらを向くマイの口がかすかに動く。彼女は僕に何かしゃべり掛けてきているがその声はやはり音にならない。僕がしゃべる声も同じように音にならず、その言葉が頭の中に思い浮かぶことさえない。

 しかし僕らの動くその踊りからビートが浮き上がってきていた。僕は身体の中に湧き上がるグルーヴを感じた。静かだった。この静かな記憶の、静寂の世界には、音は無かった。言葉も無かった、意味も無かった、しかし、そこにはすべてが満ち、世界が揺れていた。僕もその中で踊っていた。空間に広がり、時間の中で揺れた。光が満ち、濃い影ができた。僕らの影が踊り、重なり、離れた。

 マイが何かをつぶやいた。僕はそれを言葉でない言葉で聞いて、理解し、そして忘れた。——何かが終わりそして始まった。

 僕がもう少しで彼女の横に立つと言う時に、マイは僕からすべるように離れてゆく。僕は手を伸ばし、その手を掴もうとするが、一瞬触れた指先はそのまま離れ、追いかけようとする僕にマイは追ってくるなと言うような様子で、手を振っている。

 ——僕の前にはサキが立って、彼女の伸ばす手もまたマイの手をすり抜けて、マイは暗闇の中に消える。

 マイは嬉しそうに笑っていた。彼女の語る言葉は僕には聞こえなかった。しかしその言葉の振動は僕に意味以上の何かを分らせた。サキが床に膝を着きうなだれた。僕もとめどなく涙が出てきた。

 そして……。

「どうかしましたか」

 大妻と言う男の言葉で僕は我に返った。マイは光のない目で僕をじっと見詰めていた。振り返ると、先も呆然とマイの方を見つめている。

「いえちょっと光が目に入って、ぼおっとして……」

 身体を戻して僕は言う。

「それならば、よかった。長旅でお疲れなのかと」

「大丈夫ですよ」

 そう言いながら僕は立ち上がった。

 しかし、少し立ちくらみがして、また座る。

 すると、ちょうどその時、

「マイ? どうしたの」

 サキの声だった。マイはまるで人形のように身動きせず、宙を見つめ固まっていたのだった。

「いつもの……ですが」と大妻。「すみません始まるとしばらくは」

 男は、マイを抱きかかえる言う。

「奥に寝せてきます」

 男は、がっちりとした体つきで、マイを持ち上げる力くらい十分にありそうだったけど、それにしてもあまりに軽々と持ち上げられたのに僕はびっくりした。それは、単に体重が軽いだけでない、彼女の生全体が軽くなっているように感じられた。

 僕とサキは立ち上がり二人で目を見合わせた。サキも、こう言う状態は初めてと言うような表情であった。

 すぐに大妻が中から戻ってきた。

 彼の疲れた顔を見てサキが言う。

「私たちに出来ることは……」

「いや……大丈夫です。待つことしか出来ないんです。マイは、たまに、ああなりまして、医者からもまずは寝せてゆっくりとさせなさいと言われておりまして」

「何か買って来た方が良いものとか……」と僕。

「いや。多分あなた達がそばにいてくれるだけで良いと思います」と大妻。

「でも・・・…」と僕。

「もちろん私も不安に思います。いつあれが、あのまま戻ってこなくなってしまいやしないかと、しかし……」

「しかし?」と僕。

「私にできるのは待つことしかできないのです」


 マイが動かなくなった後、僕らは何をするでもなくだらだらと景色を見ながら縁側に座っていた。僕らは、ほとんど言葉も無く、ただ時を待った。

 待つ時はただ流れた。不思議に不安は無かった。それは何故なのかは分からなかった。大妻と言う男がまるで慌てずに落ち着いた様子でいたことが理由の一つだとは思うが、それだけではない何かが僕を落ち着かせていた。

 それは何なのだろうか。ここにある物の中に潜む何か秘密が潜む。いまここにいる全て、僕らと、自然、この中にどれかに答えがある。あるいはその全部に。僕は日の光に照らされた庭木を見て、風の音を聴き、まどろんでいるような状態で縁側に座る。

 時間がゆっくりと流れていた。少しずつ過ぎて行くその中で、僕は、落ち着いてその流れる世界に身を任せた。波の音が聞こえた。潮の匂いを感じる。

 僕は深呼吸をした。サキが小さな咳をした。と、視線を感じ振り返り、大妻と目が合う。

「お待たせして申し訳ないですね。いつもならそろそろかと思うのですが」と大妻が言った。

「いえ」と僕。

 麦茶の瓶を持ち僕のグラスに注ごうとして、残りがあまりないのに気づいて、

「あれ……ちょっと待ってください。替わりを取ってきますから」と立ち上がりかけながら大妻。

 すると、そのタイミングを待っていたかのように、

「あの……」とサキ。

「なんでしょうか」と大妻。

「一回マイの様子見に行って良いでしょうか」

「もちろん。もしかしたらサキさんが見に行ったりしたらその瞬間にばったり目を覚ますかもしれませんな」

 サキは、

「私よりも……」と言いながら僕を見る。

 大妻は分かっていると言った表情で僕を見ながらやさしく微笑んだ。

 僕の手を引きながらサキは立ち上がる。引かれるまま僕は立ち上がり奥の部屋に歩いて行った。 

 ——少しがたついた障子を注意深く開け、僕らは奥の部屋に入った。中は、薄暗いが、窓の外に陽光に照らされたモミの木の見える、軒下から少し差し込む光も柔らかい、落ち着いた感じの場所であった。

 そこは、畳敷きの、古いタンスが角に置かれている以外は何もない、殺風景な部屋であったが、何か包まれるような優しさを感じる部屋であった。この家に今まで流れた、その長い時間だけが作り出すことができたその表情――部屋のそれが――安心を与えてくれる。その真ん中にマイはいた。

 彼女は、安らかな顔で、幸せそうに微笑みながら、赤子の眠るような満ち足りた表情をしながら、布団の裾を軽く掴みながら横たわっていた。

「大丈夫そうね」とサキ。

「ああ」と僕。

 もちろんマイの病気が何なのか分かっていない僕が今の状態をどうこう判断できないのだが、かつて彼女がSの床で倒れていた時のことを思い出しながら、少なくとも苦しんでいないことにほっとして、そして、その瞬間、僕は感情が、あの頃と――Sの床に倒れたマイに駆け寄った時の気持ちと同じであることに気づき、思わず駆け寄ろうとする。

 だが、そんな僕を、じっと僕を見つめる視線を感じ体は止まる。

 僕は、はっとしてそのまま振り返って――目があったサキは――ゆっくりと頷き、

「私は、今。また負けたでしょ」と言った。

 サキは、じっと僕を見つめていた。彼女は、いつも表情の表面に微妙に纏っていた虚飾を剥いだ、今までに見たこともない素直な顔で、僕とマイのことを交互に見つめていた。

 僕は、今の言葉で、彼女の今日の本当の目的を知る。別に、いまさら自分と僕が――多分マイと僕も―どうこうなるような展開があることを思っていたのではないだろうが、彼女なりにここにけじめを付けに来て、そしてそれは今終わったのだった。

 サキの顔は今まで見たこともないほど無防備で、少し子供っぽく見えた。その彼女の顔を僕は今までで一番美しく感じながら、……しかし彼女の答えは間違っていることを伝えなければならない、

 ――そう、

「いや僕が負けた」

 僕は言ったのだった。サキは少し不思議そうな、きょとんとした顔で僕の言葉を聞いたが、すぐに合点がいったような表情になり、

「じゃあ両方ということにしましょう……」と言うのだった。

 白い光が枕元で揺れ、風鈴の音が聞こえた。風が吹き込んでマイの髪がふわりと浮き上った。

「おとぎ話なら」とサキが言う。「ここでユウがキスをすればマイは全てが元に戻るのだと思うけど」

 サキの口調にはふざけたところはなく、しごく真剣な様子だった。

 横を向いた僕と目があった彼女は、真面目な顔を見られたら、――あわてて、照れ隠しのふざけた顔になって笑うけど、その目は僕に何かを求めているようだった。まさか本気でキスをすることを望んでいたりはしないと思うけれど、何かを、僕にできる何かをすることを望んでいるのだった。

 僕は頷いた。何をしなければならないのかなんて、――分けも分からずに、マイに会うことだけを考えて、ここにやって来た僕であったが、何か、僕が今ここにいる意味があるはずだと、僕は自分の心の中を探る。深く、深く、心の奥、自分の生よりも深く積もった、過去の中に潜り、その底で、言葉を拾った。僕はその声を聞いた。

「いや、触れてはいけない」

「触れる? 何? キスなんてもちろん冗談よ、何……」

「僕は約束したんだ。僕は覚えている」

「何を」

「あの時代を」

「時代を?」

「僕は忘れない、覚えていないといけない」

「覚えて? 何それ? ……あれ、マイ!」

 サキの言葉の途中で、布団から突然起き、立ち上がったマイだった。僕らは、びっくりして言葉を飲み込んで、ただその姿を仰ぎ見た。

 マイの姿は、差し込む光に照らされて、そこにあった。神々しくマイは在った。――確かに在った。僕はその姿を見て、彼女に手を伸ばしかけたサキに向かって、

「触れてはいけない」と呟いた。

 この時、僕は分かったのだった。僕らの、あの時代の、意味を、今、僕は知ったのだった。マイが微笑み、僕はそれを知った。僕は知らなければならなかった。そして伸ばした手を止めなければならなかったのだった。

 僕らはまだ途中なのだった。僕はまだここにいて、あの時代が、僕らのあの時代が天上に至るまで、まだまだ地上をうろつかないと行けないのだった。

 僕は、今を生きなければならないのだ。消えたはずのあの時が、今、蘇ったが、それは天に至る途中の、触れば壊れてしまうまだそんな脆弱なもの――。

 僕は覚えている、あの時代を、君を。それは、その記憶は、夢は、僕が日々の生活の中で汚し、慣れ、消え去ってしまって良いものではない。

 触れてはならない。僕は、自分の使命の意味を知る。僕はまだその身に触れてはならぬ。僕は仰ぎ見る。僕らの輝くその時代は、落ちて行くだけだったのはずの過ぎ去った時代は、宙に浮きゆっくりと天に向かう。僕は手の伸ばす、その光球に、立ち上がったマイへ向かって、――手を伸ばし、しかし決して触れないまま、僕ははにかみながら笑う。……マイもにっこりと笑った。

 僕ももう一度笑い、君の笑う瞳に移る僕を見る。そうだ、僕だ。そう、見つけたのだった。僕は、ずっと離れていた、探していた、君に、――そして自分自身にこうやって会うことができたのだった。

 僕は見つけた。そこに僕はいた。そう、僕は、遂に、僕に会った。そしてこの世界。僕はここにいる、まだ、うつろうこの世に、そして、——君。

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