5-2 性的強調表現は何が問題なのか

 さて、では、性的強調表現は何が問題なのだろうか。

 大抵の場合、その表現は表現単体で問題となるのではなく、公表する場によって、特に広告に使用された場合にそのことが問題となる。それはなぜだろうか。


 前項で、性的強調表現は女性の性的な部分を強調するものであると指摘した。そのような表現を広告に使うことがどのようなことを意味するのかを考えると、この話は分かりやすい。


 性的強調表現を使用することは、言うまでもなく、主に男性を性欲によって広告にひきつけ、それによって広告したい内容の周知という目的を達成することを意味している。これは、レストランが食欲をそそる料理の画像で客を呼び込んだりするのと同じである。


 問題は、ここで使用されているのが料理ではなく女性の表象であるという点である。つまりここでは、料理が客引きの道具として使用されているのと同様に、女性が客引きの道具として使用されている。


 では、女性を道具として使用することは何が問題なのだろうか。

 当然だが、女性は意思を持った人格であり道具ではない。それを道具として使用し、かつその広告を公にすることは、人の人格を無視し道具扱いすることを、少なくとも公にしていい行為であるという認識を流布していることになる。


 このあたりの論理は、性暴力表現が公にされるために生じる問題と似通っている。


 いや、しかし、それを言うのであれば、人間を広告に使用することは一切できなくなるではないか。男性だろうが女性だろうが、芸能人をコマーシャルに使用するかのごとき行為は一切許されなくなるではないかという反論がされよう。しかし、「通常は」そうはならない。なぜなら、「通常は」、人を人格のない道具扱いしてはいけないことが、社会において共通して理解されているからである。


 「通常は」と括弧でくくった。つまり、例外があるということだ。

 それは、今回問題としているように、その道具としての扱いが、「性的な道具」としての扱いになる場合である。


 殺人が悪行であることが社会で共有される一方、性犯罪が必ずしもそうではないことは以前に述べた。これと同様に、女性の人格を無視して性的な道具として扱う行為は、悪行であると社会で共有されていない現実がある。


 実例は枚挙にいとまがない。女性に職場の華のとしての役割を求め不合理な服装規定を強要することから、戦時中兵士の性欲解消の道具として女性を扱った従軍慰安婦、戦時性暴力の問題まで、一生をかけても語りつくせないほどだ。


 そのような現状がある以上、女性を性的な道具として扱うことには慎重にならなければいけない。そのような表現が公にあることで、女性を性的な道具として扱ってよいと考える者が現れかねない、あるいはそこまでいかずとも、女性の意思や人格を軽んじる者が現れる可能性があるからだ。男性が出演している広告を見て、彼らを道具として扱ってよいと思う者がまずいなくとも、逆は十分ありうる。


 女性のモノ化、客体化という言葉を聞いたことがあるかもしれない。それはおおむね、こういう意味と問題意識である。


 このような背景から、性的強調表現は問題視され、公に使用するときには批判を浴びることとなる。


 なお、性的強調表現の広告使用について、被写体となった女性が自らの意思で出演しているため客体化には当たらないという主張が見られる。だが、被写体の意思はどうあれ、実際に広告に使用されている時点で、道具として使われることには違いがないため、ここではあまり意味のない議論である。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る