1-5 必要な証拠の強度

 本論では基本的に、こういう理由があり、こういう根拠があるのでゾーニングは正当であるというかたちで議論を進めていく。


 だが、この際、筆者が提示している根拠が薄弱であるという反論が考えられるだろう。

 その最たる例が、ポルノが将来の性暴力へ与える影響についてである。詳しくは当該章に譲るが、あるものが犯罪を誘発するかどうかは間接的にしか検討することができず、故に、直接的な証拠とみなせないという主張がある。


 しかし、本論においては、このような間接的な根拠も、少なくともゾーニングを要求するには十分であると考える。

 それは、必要な証拠の強さは要求の強さに対応するという原理に基づく。


 例えば、刑事裁判を考えてみよう。刑事裁判で要求される証拠は一般に、合理的な疑いを差し挟む余地のない強さである。言い換えれば、被告がその犯罪を行ったことが確実に明白であることがわかるレベルの証拠が求められる。


 一方、民事訴訟ではそこまで強い証拠は求められない。これが大学による学生の処分のように、ある私的集団の話になると、必要な証拠のレベルはさらに弱くなる。


 もちろん、例に挙げた3つの段階において、被告が犯行を行ったことを示す証拠は必要である。だが、疑いを差し挟むことのできる余地が大きく異なる。刑事裁判ではほとんど疑えないレベルでの証拠が求められるのに対し、私的集団による構成員の処分であれば、常識的に考えればおおむね妥当といえるレベルの証拠があればよい。


 アメリカの事例にはなるが、この点は、大学のラグビー選手が起こした性暴力事件を追った、ジョン・クラカワーによる『ミズーラ 名門大学を揺るがしたレイプ事件と司法制度』がうまく説明している。


 アメリカでは、刑事裁判はやはり強い証拠が求められる。一方、民事訴訟や大学による処分といった場面では「事実がなかったというよりはあったというのが妥当」という程度の証拠で十分とされている。そして実際に、証拠の不足から刑事裁判で無罪となった者が大学を退学となっていたりする。


 この、求められる証拠の強さの差異は、ひとえに、証拠に基づく要求の強さによるものである。

 刑事裁判であれば、被告に下されるのは刑事罰である。つまり、国家による権利の制約である。であれば、その裁定は最大限慎重でなければならない。


 一方、私的集団による処分であれば、下せる処分はせいぜい集団からの追放である。これも被告にとっては打撃であることは間違いないが、刑事罰ほどではない。このギャップが、要求される証拠の強さの差異になる。


 話をゾーニングへ戻そう。ゾーニングというのは、要求としてはかなり弱い部類に入る。ゾーニングは公の場所での開陳を拒否するものであって、それ以外の場所でのことは一切求めていないからである。販売するなとも言わないし、燃やせとも言わない。極端な話、その者が望むのであれば、公ではない場所でこっそり未成年へ性暴力表現を売ることも否定していないとすら言える。


 これほど弱い要求であれば、それを根拠づけるエビデンスの強さは、「種々の要素から論理的に考えて十分な恐れがある」という程度で構わないというべきであろう。もちろん、販売を禁止するとか、発表を一切否定するということになれば、必要なエビデンスの強度は上昇する。


 なぜこのような、持って回った前提を改めて確認するのかというと、性暴力表現にまつわる議論において、直接的な証拠を得にくいことを盾にして、ゾーニングの要求を全くの無根拠なものであるかのように言い立てる者がいるからである。


 強固な証拠が得にくいことは、証拠が皆無であることを意味しない。そもそも、上で論じたように、全ての物事に対して「極めて明白な証拠」なるものが必要であるという考え方自体が誤りである。

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