第1章 議論の前提

1-1 公共の福祉と「最小の制約」

 まず、本論における大前提を確認する。

 それは、全ての者に人権があり、人権と人権とが衝突するときにのみ、これを調整するために権利が制約されるということである。


 なぜ、わざわざこのようなことを確認するかというと、言うまでもなく表現の自由が人権の問題であるからである。そして、ゾーニングの訴えもまた人権の問題だからである(この点は後の項で述べる)。


 表現の自由は重要で、民主主義の基盤となる権利である。こういう考え方が広く受け入れられているせいで誤解されがちだが、表現の自由が極端にほかの権利に優越するということは特にない。もちろんケースバイケースで、公人に対する表現の自由はその公人の諸権利に優越しやすいといった事例はあるだろうが、ここではそれはさておき、表現の自由も他と変わらない権利の一種であると理解してほしい。


 つまり、表現の自由も他者の権利と衝突したとき、その調整のために制約されうる権利であるということだ。これはプライバシー権がよい例となる。

 このような原理を一般に「公共の福祉」という。


 そして、もう1つ確認すべき前提がある。それは、権利の衝突を調整するために行われる制約は、最小限であるべきだということだ。


 窃盗犯で例えよう。窃盗は財産権に対する侵害である。窃盗犯には身体的自由の権利があるが、これを放置することは他者の権利の侵害を放置することになる。


 そこで国家は、「やむを得ず」「最小限の制約」として、窃盗犯を拘禁する。窃盗犯の身体的自由を制約することで、財産権の侵害を防ぐというわけだ。


 だが、この制約は最小限でなければならない。例えば窃盗犯の腕を切り落とすのは、確かに窃盗を防ぐことに繋がるだろうが、明らかに過剰である。また、身体を拘禁したのちにあまりにも劣悪な環境へおくのも過剰な権利の制約であるといえる。原理的には(あくまで原理的には、だが)、刑務所に入れればそれで権利の侵害を防ぐには事足りるので、それ以上の権利の制約をしてはならない。


 何をもって最小限の制約とすべきかは、ケースによって異なる。例えば、機関銃の引き金に指をかけ暴れまわる者を止めるために射殺するのは、被害を負う者の数と重篤度、そうなる可能性の高さからやむを得ないと言えるかもしれない。一方、暴れまわる者の手にハリセンしか握られていないような場合は、射殺は明らかに過剰な対応である。


 故に、何をもって最小というべきかは、個々の事例で論じる必要がある。が、本論では議論の進行の都合もあり、後に述べる性暴力表現が、少なくとも公からは追放されるべき程度に権利を侵害するものであるという前提で話を進める。


 とはいえ、性暴力表現をより強い権利侵害とみなしても、逆により弱い侵害とみなしても、議論の流れに変わりはない。ここではともかく、表現の自由も公共の福祉によって制約を受けること、制約は目的を果たすために最小限であるべきだということを抑えてほしい。

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