9.人から外れた者


 キメラは何度か身体を痙攣させながらも、僕たち目掛けて突進してくる。動きは直線的だが、とにかく不気味だ。鳥肌が立つほどに。如何に魔物と言えど、こんな風にされてしまうのは酷い、と感じる。

 僕にできるとすれば、この悲しき魂を一刻も早く解放してやることくらいだ。


「エリスさん、下がっていてください!」

「は、はい!」


 エリスさんを安全な場所まで下がらせ、僕とセリアは道を塞ぐように並んで立ち、キメラを迎撃する。


「――交破斬!」


 向かっていく斬撃に対し、キメラは全く防御姿勢をとらなかった。脚を切断され、血飛沫が上がるのに、鳴き声の一つも出すことなく、立ち止まることもしない。そう、こいつらは最早生物とさえ言えるか分からないほどに、何もかもを奪われてしまったのだ。痛みもなければ、絶望もない。ただ、眼前の敵を処理すること、それだけが頭の中を占めるもの。


「――光円陣!」


 怒りが込み上げてくる。科学の発展という名目で、命を弄ぶ彼の行いに。この戦闘すらも、実証実験として楽しもうとしている彼の歪んだ表情に。


「――フレイムピラー!」


 火柱に巻かれながら、キメラたちは平然と駆け抜ける。僕は辛うじて突進を避けたが、、セリアは思い切りぶつかられ、後方へ数メートル吹き飛ばされた。


「きゃっ!」

「セリア!」


 キメラは火だるまのまま、セリアへ追撃しようと走っていく。僕はスキルで速度を上昇させ、キメラを背後から斬り捨てた。


「ご、ごめん!」

「いえいえ!」


 セリアは胸を強く打ったようで、手を胸元に当てつつ息を整えている。念のため回復魔法でも、と思ったが、キメラは攻撃の手を休めず向かってくる。


「――崩魔刃!」


 前方にまとまったキメラたちに、僕は範囲スキルをお見舞いした。斬撃が襲い、手脚が吹き飛ぶ。それでもやはり感情を宿すことなく、キメラたちは這いずりながら噛み付いて攻撃しようとしてきた。動きも鈍く、当たるはずもない攻撃。それでもこいつらは、最期まで命令に忠実であり続ける。命令を入力されたシステムのように。

 だから、僕がそれを終わらせる。


「――斬鬼」


 魔力を纏う巨大な剣で、僕はもがくように動き続けるキメラたちを、一閃した。


「なんと……これが勇者の力か……」


 オーラを放つ剣に見惚れながら、ジョイさんは呟いた。放ったキメラたちは全てやられてしまったというのに、焦りは全く見られない。何故だろうと訝しんでいると、彼はポケットから細長い何かを取り出した。

 先端がキラリと光る、それは注射器だった。


「フフフ……今こそ研究の成果を見せるときですな。コレがどれだけ強力なものか、試してみたかったのですよ」


 そう言うと、ジョイさんはおもむろに注射器を自身の左腕に刺した。注射器の中に入っていた赤黒い液体が、彼の血管内に流れ込んでいく。全てを注入し終えた彼は、薄気味悪い笑みとともに注射器を投げ捨て――その体をビクリと仰け反らせた。


「なっ……!」

「なになに!?」


 僕たちが混乱している間にも、ジョイさんの体は少しずつ変化していた。皮膚がどす黒く変色し、ゴムが裂けるようなブチブチという音とともに、全身が歪に膨張していく。その姿はまるで、魔物。

 そう……彼は今、人間から魔物へと変貌を遂げたのだ。


「驚きましたか? ……これが研究の産物です。魔物どもをひたすらに調べ、悪しき力を抽出することに成功した。第二段階である掌握まではいきませんが、こうして悪しき力を取り込むことで、一時的に魔物どものような強靭な肉体と魔力を得られるのです」

「め、滅茶苦茶だ……」

「気持ち悪い!」


 僕とセリアは、半ば呆れたように彼を見つめたが、その後ろでエリスさんは、打ちひしがれたように涙を流し、くずおれていた。……尊敬していた人物がまっとうな研究者の道から外れたばかりか、人間ですらなくなってしまったのだから、その衝撃は凄まじいことだろう。無理もない。

 裏切られた多くの研究者たちのためにも、この男は倒さねばならないな。


「生憎、制限時間が短いのでね、さっさと楽にしてあげましょう」

「……負けるわけにはいかない」

「罪は償わせるわ!」


 人間から魔物に変化したマッドサイエンティスト。

 戦闘能力がまるで未知数だが……それでも、ただ勝つのみだ。

 ジョイさん――これだけ人の道を外れた以上、敬称を付けても仕方ないか――もといジョイは、二倍近くに膨れ上がった体の動きを確かめるように、手や足を動かす。皮膚や筋肉が分厚いためか、動くたびにさっきと同じような断裂音が聞こえてきた。

 最後に首を横に傾いでコキリと音を鳴らすと、ジョイはこちらに手をかざし、大きく目を見開いた。


「――ブリザード」


 戦闘経験などないはずのジョイが発動した水魔法。かざした手から吹き荒ぶ氷の風は、凄まじい威力で僕たちを襲った。床や付近の培養装置は表面が凍り付き、直撃した僕たちの体も骨まで沁みる冷たさと、細かい霰が肌を裂く痛みに襲われた。


「ぐっ……!」

「い、痛い……!」


 悪しき力によって魔力と、魔術士としての力も手に入れたということか。魔法を操る敵とはまだ戦ったことがなかったので、かなりやりにくそうだ。

 かと思っていると、凍えて動けなくなった僕たちに、ジョイは黒く変色した剛腕で追撃をしてきた。魔法も物理も強力だと、そういうことか。僕は肌の痛みに耐えながら、セリアを抱えてその場から飛び退く。


「――キュアー」


 凍傷になっていると厄介なので、状態異常の回復魔法を自分にもセリアにも使っておく。リカバーも使いたかったが、ジョイはもう次の攻撃を準備していた。


「――無影連斬」


 魔力の充填が終わらない内に、僕はジョイに無数の斬撃を放つ。魔法の発動は阻止出来たが、攻撃は腕一本で容易く防御され、力任せに払われて吹き飛ばされた。


「あの体、見掛け倒しじゃないな」

「どこかに弱点とかないのかしら……」


 見る限り、全身が変化していて弱い部分があるようには思えない。強いて言うなら、目や口なんかは弱点だろうが、相手もそれくらいは理解していそうだし、ピンポイントに攻撃を通せる自信はなかった。


「……あれ?」

「どしたの?」


 エリスさんに被害が及んでいないかを確かめようとして振り返ると、そこに彼女の姿が無かった。彼女は戦えないし、培養装置の間を抜けて逃げたのかもしれない。まあ、その方が賢明だ。ジョイの醜い姿を見るのも、辛いだろうから。


「……ふう」


 良い手もまだ浮かばないし、今は思いついたことをやっていくしかない。何とかして攻撃を通さなければ。


「――ブラックアウト」


 ジョイは次なる魔法を発動させる。僕たちのいる場所を、漆黒の空間が覆っていった。すぐに後退するが、魔法は僕たちの体を蝕み、圧迫されるような痛みとともに視界が黒く塗り潰されていった。


「――キュアー!」


 状態異常が曲者だ。これのせいで、反応が遅れてどんどん後手に回ってしまう。こういう場合は、どれだけ効果が期待できるか分からないが、上位の癒術士スキルで対処した方が良さそうだ。


「――プロテクション」


 魔法系は苦手な部類だが、それでもちゃんと効果はあるだろう。癒術士の第七スキル、プロテクション。状態異常を予防できるこの補助魔法なら、相手の攻撃に苦しめられることも少なくなるはずだ。


「――サンライズ!」


 セリアが光魔法を放った。陽光のような輝きで室内は真っ白に染まる。吸血鬼がその身を焼かれるように、ジョイの皮膚もチリチリと焼け、白煙が上がった。光魔法ならばある程度はダメージが通るのか。


「……ふん、中々強力な魔法ですな」


 そう言いつつも、ジョイは特にセリアの魔法を問題視はしていない様子だ。それもそのはず、彼はリカバーを発動させ、すぐに皮膚のダメージを修復してしまった。

 初級の回復魔法までなら使えるようだ。つくづく厄介な相手だな。

 ……光魔法、か。


「セリア、さっきの魔法は効いてたよね」

「うん。あの姿、闇属性が濃いのかも、悪しき力を取り込んだみたいだし」

「僕が注意を引くから、ジャンプしたタイミングでもう一度やってほしい」

「ん、了解」


 早口で言葉を交わし、すぐセリアから離れる。ジョイはどうやらあの鈍重な体では動き辛いようで、遠くにいるセリアよりは僕を狙っているようだ。物理攻撃ならセリアが危険に晒されることは少なそうなので、動き回りながら魔法に注意しておくことにする。

 ジョイは腕を振り上げ、僕に向かって振り下ろす。速度を上昇させている僕には遅い攻撃だったが、魔物の浮かぶ培養装置があっさりと破壊されたのには驚いた。ここにある装置には、最早価値を感じていないということらしい。

 中にいた魔物たちはやはり既に死亡しているようで、解放されたというのにピクリとも動こうとしない。その内の一体にジョイが近づいていくと、まるでサッカーボールのように足で蹴り、こちらへ飛ばしてきた。とんでもない、冒涜的な攻撃だ。

 僕は大きくジャンプして、蹴り飛ばされた死骸を回避する。そして宙返りをしながら、セリアにちらりと目配せした。彼女がこくりと頷く。


「――サンライズ!」


 さっきと同じ光魔法。それは二方向――つまり僕とセリアからそれぞれ放たれた。ピッタリ一緒のタイミングで、掛け合わされた魔法がジョイを襲う。強烈な閃光が、黒く染まった皮膚を漂白するかの如く、爆発した。


「お……おお……!?」


 切れ者の研究者も、流石に魔法を重ねて攻撃されるというのは予想外だったようだ。そもそも僕が中級魔法まで使うことが出来るのを知らなかったからだろう。僕自身、攻撃魔法は能力値の関係からあまり使ってこなかったが、セリアの魔法と共鳴させるやり方でなら、かなりの威力を発揮できそうだ。

 きっとこういう戦法は普通に存在しそうだが、強力技を思いつくことが出来て、それが高威力だったのには満足だった。


「フフフ……面白いことをしてくれますなあ」


 全身から白煙を立ち昇らせながらも、ジョイは不敵に笑いながら余裕げな台詞を口にする。また、回復魔法を使われるかもしれない。そう思って即座に剣を振るったのだが、焼けた皮膚に刃を通すことは叶わなかった。……なるほど、あの合体スキルでも外側が焼けただけで、それほど深刻なダメージではないということなのか。


「まさか、中級魔法を勇者が使いこなすとは。研究のし甲斐があります」

「貴方の実験体になるつもりはない。そしてこれ以上、犠牲者も増やさない」

「その強がりがいつまで続くでしょうかねえ。腸を引き摺り出すときにも、同じことが言えますかな」


 悪しき力は、飲み込まれた者の性格まで歪めてしまうのだろうか。姿を変えてから、ジョイの言葉が汚くなってきたような印象なのだが、それが悪しき力の影響か、元々隠していたものなのかは、分からない。元々のものとは、あまり思いたくないけれど。


「――チェインサンダー」


 再び魔法攻撃が僕たちに襲い掛かった。それを予測し、直前に何とか魔法防御を向上させる補助魔法、レイズオーラを掛けることは出来たが、雷の威力は凄まじかった。歯を食いしばっても、体が勝手にビクビクと震え、意識を失いそうな痛みと衝撃が弾ける。


「きゃああッ!」


 せめてセリアだけでも逃がしたかったのだが、雷属性の魔法は速過ぎてどうすることもできなかった。彼女の悲鳴に胸が痛むのを感じながら、僕は倒れそうな体を必死に保った。


「……はあッ……」

「ト、トウマ……」


 助けを求めるように、か細い声で僕の名前を呼ぶ彼女。……これ以上、彼女を傷つけさせるわけにはいかない。傷つくところを見たくなんてない。


「――ヒーリングブレス」


 範囲回復魔法で、ある程度の痛みは取り除く。完治とはいかないまでも、マシにはなった。セリアも息が整ったし、眉間に寄せた皺もなくなったので、楽になったのだろう。

 ……この前はセリアが僕を救ってくれた。僕だって、セリアを救えなきゃ。

 剣を握り直す。少し手に汗が滲んでいた。焦っちゃいけない。こういうときこそ、冷静になることが大事だ。

 そうすれば必ず、勝機は見えてくる。


「トウマさん、セリアさん!」


 その勝機は、意外なところからもたらされた。声の主はエリスさんで、彼女は研究室の奥にある部屋から出てくるところだった。そこは確か、ジョイがさっきまで入っていた部屋だ。

 エリスさんは、手にノートのようなものを持っている。どうやらそれは、ジョイの研究ノートらしい。真ん中辺りのページを開いている彼女は、僕たちに向かって大声で、ノートに書かれた文章を読み上げた。


「悪しき力の実験的注入は、まだ致命的な欠陥を克服出来ておらず、注入部に残る小さな傷が急所となる……そう書いてあります!」

「エリス……貴様……!」


 その暴露に、ジョイの態度が急変した。いけない、と直感して、僕は最高速度でエリスさんの傍まで走り抜ける。。案の定ジョイは怒りに任せ、エリスさんの方へ半ば転がりこむようにして襲い掛かってきた。

 間一髪で、エリスさんを抱きかかえて飛び退き、巨体の下敷きになるのを回避する。そして、セリアのところまで急いで戻ると、エリスさんをそこで下ろした。


「す、すいません……!」

「いや、ありがとうございます。エリスさんのおかげで、何とかなりそうだ」

「弱点発見、ね!」


 セリアもようやく見出せた勝機に、笑顔を取り戻して言う。……よし、エリスさんが持ってきてくれた情報通り、急所を貫いてやるとしよう。狙うは奴の左腕だ。


「……早く……殺さなければ……」


 ジョイはうわ言のように呟くと、ゆっくりと方向転換し、こちらに迫って来る。僕も準備を整えてから、彼を目掛けて駆け出した。

 相手との距離が半分ほどまで縮まったところで、僕は培養装置の影へ隠れるように、左へ跳ぶ。ジョイは僕が姿を出した瞬間に魔法を放つつもりのようで、手を前に突き出したまま、こちらの動きを追うようにその手を動かしていた。

 一列に並ぶ培養装置。その内三つが戦いの中で破壊されていて、僕はその砕けた装置を飛び越えて、再びジョイに接近していった。それから僅かに遅れて、彼の手がこちらを捉える。そして、口元には邪悪な笑みが浮かぶ。


「――チェインサンダー!」


 二度目の雷魔法が、一直線に飛んできた。僕は剣を前に構えたまま、全力で地面を蹴って、ジョイへ向かって跳躍する。

 魔法が剣に直撃した瞬間、目も眩むような光とともに、剣を中心とした防壁が生じた。その防壁で、ジョイの魔法はいとも簡単に消え去る。彼は何が起きたのか分からず、魔法を放ったポーズのまま硬直していた。

 その一瞬が、勝敗を分ける。


「――剛牙穿!」


 正確無比な刺突が、ジョイの右腕を貫いた。少しだけ隆起した傷痕に剣が突き刺さると、それはあっさりと貫通し、腕をもぎ取った。


「あ……あぁあガアァッ!」


 切断面から大量に血を噴き出したジョイは、聞き苦しい絶叫とともにのたうち回る。次第に彼の体は萎縮していき、肌の色も黒ずんだものから人間らしいものへと戻り始めた。



「……僕たちの、勝ちだ」


 腕を失い、立ち上がることも出来ずに這いつくばるジョイに向かって、僕はそう宣言した。彼にその言葉が聞こえたかどうかは分からない。ただ、彼はずっと涙と涎を垂らしながら、激痛と絶望に悶え苦しんでいた。


「……やったわね、トウマ」

「うん。絶対防御、ありがとう。ホントに反則級だね」

「ふふ、どういたしまして」


 命中率が高く、避け難い雷魔法を使ってくると予想した僕は、剣に絶対防御を施してもらい、捨て身の突撃を行ったのだった。まあ、他の魔法でも剣に当たりさえすれば、防壁が発動して同じ結果になっただろうけど。

 絶対防御による、相手の攻撃後を狙ったカウンターという戦法は、やはり強力だ。

 ジョイは床を転がる体力も、血液も失ってしまった様子で、すっかり青ざめた状態で動かなくなった。そのそばに、エリスさんが近づいてきて、彼を憐れんだ目つきで見つめる。


「……所長。どうしてなんです」

「……」

「私は……私たちは、所長の目指す科学の未来を信じて、共に研究を重ねてきました。そんなあなたが……どうしてこのような、非人道的な研究に手を染めるように、なったのですか」


 ジョイは口を開かない。苦悶の表情を浮かべていることから、意識を失っているわけではないようだが、喋る体力すら残っていないのかもしれない。僕は迷った末に、初級魔法で彼に応急処置を施す。千切れた腕は戻らないし、出血も完全には止められないが、それでもやらないよりはマシだった。


「……がはッ……」


 口からも血を溢れさせ、胸を押さえるジョイ。悪しき力の薬が、相応の反動を与えているようだ。腕の傷よりも、そちらのダメージの方が深刻のようだ。多分、彼はもう……。


「……一つ……勘違いを、している。私はね、……元々この研究を、託されていた」

「な……何ですって……?」

「善悪を巡る、研究は……決して浅いものでは、ない。そして、それすらも……狭い分野でしか」

「他にも、研究されていることがあるって言うんですか……?」


 エリスさんはジョイの肩を揺らそうとするが、思いとどまって自分の腕をぎゅっと掴む。ジョイは咳き込みながらも、先を続けた。


「提示された謎は……魅力的、だった。私は、研究者になった瞬間から……今と同じような、実験を続けてきたのです」

「誰から……それがさっきの、クライアントなんですか」

「……ある意味では。まあ、私の家系が、そういうものだったと……いうことですな」


 つまり、彼の親もまた、クライアントから頼まれて研究を行っていたということか。……だとすると、彼の年齢からして少なくとも五十年以上は続いてきた研究、ということになってしまう。

 狂った研究が、それほどまでに長く……。


「誰なんです。……教えてくれる気は、ないんですか。せめて、今までに奪ってきた命のためにも」

「……その命は、……世界の謎を、明らかにする……名誉の、犠牲者だ」

「そんなものを押し付けるな!」


 僕は叫んだ。堪えることが出来なかった。セリアもエリスさんも、怒りに声を震わせた僕を見て、驚いている。滅多に怒ることはない僕だけれど……今だけは、流石に平静ではいられなかったのだ。

 身勝手に奪われた命。その命に対して、奪った張本人がどの口で名誉などと言えるのか。そんなもの、被験者たちは決して欲しくなかったはずだ。死を迎えるその瞬間まで、彼ら彼女らは信じていただろう。無事に家族の元へ帰れることを。その希望を無慈悲に刈り取って、名誉の犠牲者と口走る彼の心は、まるで理解など出来なかった。

 子どもたちだけじゃない、魔物だって。たとえ人と敵対する関係であっても、狩猟される存在であっても。あのキメラのように、命の尊厳を踏みにじるような扱いを受けていたことは、どうしても許せなかった。

 

「そう、ですねえ……これは、力を求めるヒトの、……わがままなの、でしょうなあ」

「所長……」


 エリスさんが、ジョイの残された右手を握る。血を失いすぎたその手は白く、感覚も殆どなさそうで。握り返すことはもうなくて。


「……暗き星の導き……」

「え……?」


 ジョイは、ゆっくりと目を閉じながら、最後にぽつりと、小さく呟いた。


「星の、導きを……」


 そして、その手は力を失い。

 顔はぐらりと傾いで。

 彼の魂は、遠い場所へと旅立ってしまった。

 後には、血に染まった骸だけが、残された。


「……死んじゃったの……?」

「……うん」

「……そっか」


 セリアは、表情を失ったまま、ジョイの死体を見下ろしていた。けれど、その瞳だけは揺らめいて、一筋の涙が静かに流れ落ちる。

 死は、悲しいものなんだよ、と。あなたのような悪人にすら、こうして涙を流す人がいるんだよ、と。僕は伝えたかった。二度と伝えられることは、ないけれど。

 エリスさんも、冷たくなった手を握りしめたまま、そこに顔を埋めている。彼女もまた、僕たちからは見えないけれど涙を流していた。ジョイの死を、彼女なりに悲しんでいた。

 助けられただろうか。……いや、僕たちが生き延びるには、彼を倒すしかなかった。それでも、この剣が彼の命を奪い去ることになったという事実は、胸に突き刺さった。

 死ななければ……この人は変われたのかな。

 どう思うのが、一番良いのだろう。

 答えを出すことは、とても難しい。

 命の問題はきっといつだって、そういうものだ。


「……あ、あの」


 目元を拭ってから、エリスさんは立ち上がって僕たちの方を向く。


「……ありがとう、ございました」

「……いえ。僕たちには、殆ど何もしてあげることが、出来ませんでした。無理やりに、終わらせた。それだけでしかない」

「それでも。誤った道を進んだあの人を、止めてくれて。残酷な研究を終わらせてくれて。……感謝しています」

「……はい」


 この結末が、最善だったとは思えない。けれど、エリスさんがこれでいいと認めてくれるのなら。それは、確かな救いだった。


「我々研究者は、目の前の謎を解き明かすために、研究をします。それは、間違っていません。でも……そこに悲劇があってはならないんです。研究は、全ての人の明るい未来のために、なくてはならない」

「……そうですね」


 ジョイは、それを違えたまま研究者になった。そうなってしまう下地が、既に用意されてしまっていたのだ。ただ、彼にも自身を見つめなおすチャンスは、いくらでもあったはず。そのチャンスを全てふいにして、彼は最後まで突き進んだ。転がり落ちていった。

 死の間際、彼が口にした言葉を借りるなら。わがまま、だったのだろう。


「彼の死は、残念ですが。……これでもう、悪しき研究の犠牲になる子どもたちはいなくなる。だから、良かったんです」

「……エリスさん」

「すいません、私……」


 抑え切れずに、零れる涙を指で掬いながら、彼女は謝る。それを見て、無理して気丈に振る舞わなくてもいいのに、と僕は思った。

 こんなに苦しい現実を前に、堪えきれるはずなんてないんだ。


「……さようなら、所長」


 全てが終わり、静かになった研究室。エリスさんの別離の言葉が、凛と響いた。

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