最終話 クロ

「それでは……ここがかつてチキュウと呼ばれていた場所なのですか……?」

 ナーダが母から聞いた話はナーダにとって実に衝撃的なものだった。

「ええ。そうです。そして今私が話したことは、全てこの場所でかつて起こっていた事なのです」

 母の瞳は〝やはり〟真っすぐで、ナーダには母の話を疑う気持ちなど毛頭なかった。

 しかしやはり、すんなりと受け入れられるほどナーダは嘘つきではなかった。

「母よ」

「何でしょう」

「一つ疑問があるのですが」

「よいでしょう。訊きなさい」

「どうして人々は自分にとって嫌なものを見続けたのでしょう? 見るのが不快なら、聴くのが不快なら、瞼を閉じればいい、耳に手を当てればいい。そうではありませんか?」

 ナーダの疑問は至極真っ当なものだった。

 しかしその問いを聞いた途端、母の表情は一変した。

「……ええ。今となっては私もそう思います。しかし我々はそれをしなかった。我々にはそれが出来なかった」

 母の冷たい声音に、ナーダははっとした。

 母についてナーダが知っている僅かなこと。

 ナーダは思いだしたのだ。

 ナーダが持っていて、母が持っていない唯一のものを。


 次の瞬間、ナーダの眼前には母の顔が迫っていた。

 〝やはり〟真っすぐな母の瞳が、母の顔が無機質な表情で迫っていた。

「……我々はいつしか瞼を失っていた。世に溢れる人に惑わされ、モノに惑わされ……自分に合わないものを自分に合わないと認めることをやめていた。嫌いなものを嫌いだと言う勇気が無いから、嫌いなものを悪にした」

 母の顔はどんどん近づいてくる。飛び出た眼球はギョロリとナーダを見つめる。

「……ナーダ、お前はチキュウのたった一人の生き残りだ。人と人が互いに憎しみあい傷つけあうあの醜い世界で生まれた、瞼を持つ唯一の存在だった。我々の進化の光だった。一縷の望みだった……」

 母の顔はもう眼前に迫っていた。冷たい声と熱い吐息が降りかかるのを感じ、ナーダは思わず目を瞑ろうとした。

 が、すかさず飛んできた母の手がそれを許さなかった。冷ややかな指がナーダの瞼を強引に押し上げる。

「……だがそれも今日までの話。ナーダ、お前には失望した……」

「母よ……どういう……ことです……」

 母の手の力は次第に強まり、ナーダの瞼は今にも引き千切れそうになっていた。痛みと乾きに潤む瞳の奥で、ナーダは恐怖という感情を知った。

「瞼を持たない人間もいるというのに、瞼を閉じろなどと! 自分本位で不謹慎極まりない先の発言を忘れたか!」

 激昂する母の唾がナーダの目を襲う。

「不愉快だ! 非常に不愉快だ‼ 貴様のような存在、もはや進化の希望でもなんでもない‼」

 かつての穏やかな母の姿は今やどこにも見受けられなかった。ナーダを見下ろす狂気を湛えた存在は、ついさっき話に聞いたばかりのチキュウの人類に他ならなかった。ナーダの震えが次第に大きくなっていく。

「……母よ……やめて……」

「ナーダ、私の視界に、私の世界にもうお前は要らない」

「母よ……!」


「目障りだ。消えてくれ」


 刹那、真っ白だったナーダの世界は赤く染まった。

 全身を襲う痛みと途絶えていく意識の中でナーダが目にしたのは。


 真っ黒な世界だった。

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ヒトミヲトジテ おぎおぎそ @ogi-ogiso

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