14.まさおとトブワレ
白骨化したトロール、それが一番ちかい表現だと思う。
それも、綺麗な骨ではない。現在進行形の腐乱死体とでも言うのか。食いかけの肉が、まだ頑固に張り付いている。
一番肉が残っているでっぷりお腹は、腹わたが出ていて直視出来ない。
裂けた
死ぬ前は、と言いたいけど、それは動いていた。
「こんな危ない所をほっつき歩いていたらいかんよ」
怪物は低い声で、もっともらしく言った。
見た目に反して、間の抜けた、落ち着きのある声だ。
顔に肉がないので、表情は読めない。頭蓋骨が、顎の上下運動で喋るのだ。こちらとしては、目を離さず後ずさりする他ない。
「聞いてるのかぁ?おめぇ、どうやってここまで来た?そっちは危ねぇって言ってるだろう」
自販機のような巨体を揺らしながら、どんどん詰めてくる。
腹の中身を引きずりながら来るので、僕もどんどん後ろに下がる。
急に地面が無くなった。
そのまま落ちると思ったが、怪物が僕の手を捕まえた。
フライパンの様に巨大な手で、僕の腕を摘んだまま、来た道を引き返す。
また落ちると思っているのか、怪物は何メートルも崖から離して、僕を降ろした。
「周りを見てみろ。あいつらが見えるか?」
見ると、断崖絶壁は何処までも続いていた。遥か彼方で小さくなっているが、その先も崖になっているのだろう。
疎らに人々がいて、
「いいか?あいつらは全員死者だ。神さまの呼び声に従って、あの世に行く。しかしおめぇは?おめぇは違う。ここで何をやっている?」
「友達に失神ゲームをさせられていて、起きたらここに居たんだ」
「シッシンゲームってなんだ?」
「わざと過呼吸になって、胸を叩くと失神するんだ」
「なんで子供って奴は馬鹿な遊びをしたがるんだ。死んだらどうする」
「多分、僕は死ぬ必要があるんじゃないかな。だからここにいるんだ」
「知った風な口を聞くな。俺の鼻は間違わねぇ。神さまはまだおめぇを呼んでねぇよ」
「じゃあどうするの?」
「歩くのよ」
怪物は、後ろを指差した。ヒビ割れた地面が、遥か彼方で、雲一つ無い灰色の空と交わっている。
「なんだおめぇ、覚えてないのか?一人でここまで来ておいて」
僕が面食らっていると、怪物が呆れたように頭を掻いた。
「あんなに遠くから?」
「そうだ。馬鹿馬鹿しいぐらいに遠いぞ。おめぇの曾祖父のさらに曾祖父の世代が、未だにあの地平線の辺りをほっつき歩いていたりするんだからな」
「そんな遠くまで、戻れっこないよ」
「そうかも知れねぇな。だが、そうじゃねぇかも知れねぇ。ここには時間という概念が無ぇんだ。だから全て終わって見ると、そのお前にとっちゃ、一瞬の出来事だった、ちゅう事になるんだ」
僕たちは自然と歩き出していた。
大きな身体で歩調を合わせて来るものだから、足踏みをしているように見えた。
さっきまで怯えていたのが馬鹿らしくなるほど、滑稽な仕草だ。
「トブワレってんだ。相当有名な豪族で生まれたんだぜ」名前を聞くと、トブワレは誇らしそうに言った。
「僕はまさお」
トブワレは愉快そうに、まさお、まさおと何度も呼んだ。
気が狂うか狂わないかのギリギリの線上を、僕は歩き続けた。何日も歩いている様な、その癖にトブワレに会ったばかりの様な気がする。
「いいか?絶対に目を合わせちゃいけねぇ。俺のそばから離れてもいけねぇ」
初めて死者とハチあった時に、トブワレが低い声で忠告してきた。
死者は室町時代を思わせる衣装を着ていた。長い髪に隠れて、顔がよく見えない。
右に、左に上半身を揺らしながら、焦点の定まらない目があちこちに彷徨っている。視界の隅で、それが見えた。
「生への執着がある奴は、あの様に狂ってしまうんだな。そりゃあこんな所を一人で歩いてりゃ、気も狂うんだろうよ。ほら、また来た」
女の人だ。防災頭巾をかぶっていて、服は血だらけだ。抱っこ紐を付けているけど、背中に赤ん坊はいない。
すれ違う時には、「坊や、坊やはどこ?」と呟いているのが聞こえた。
それからも断続的に死者とすれ違った。殆どの人はただ茫洋として、崖に向かっているだけだった。
トブワレは、何故この人たちみたいに崖に行かないんだろう?気になって、直接聞いてみた。
「そりゃあもう、飛び込んでやったさ。とっとと楽になりたかったからな」トブワレは言った。
「だけど、俺が生きてる頃にうんと悪さしたもんだから、神さまが許してくれなかったのさ。罰として、ここでお巡りさんをやってるっちゅうわけだ」
「何をやらかしたの」
「馬鹿デカイ図体をしてるもんだからよ、生前の俺はつけ上がっちまったんだな。その時代で知らねぇ奴はいねぇ程の暴れん坊だったのよ」
「人を殺したのかい?」
「いっぺぇ殺した。ガキの頃から、気に入らねぇ奴を摘みあげては、そいつの頭をクルミみてぇに握り潰してよ」
背中に一瞬、寒気が走ったが、もうトブワレに怯える必要はないと分かっていた。
「そんな俺も、嫁が出来たときに、ずっと独りぼっちだった事に気付いたのよ。それからは無闇に暴れる事もなくなった。嫁を巻き込んだら大変だからな」
トブワレは言葉を切った。珍しく、言葉に詰まっていた。
「どうなったか想像出来るか?
それまでは奪ってばかりだったからよ、俺は奪われるちゅう発想が無かった。
どっこい、狩から帰ると、嫁を木から吊るして笑っている奴らがいてよ。
そいつらを半分に裂いて、嫁を降ろしてやったが、もう死んじまってた。俺はそこで初めて、奪われるっちゅう事と、痛みや恐怖って奴を知ったのさ。
んで、俺は嫁のあとを追っかけて、でっけぇ戦に出掛けた。だがよ、嫁に会うには、あまりにもいっぺぇ殺し過ぎた。俺は相当の馬鹿だったのさ」
「いつか、また会えるんでしょ?こうやって罪を償っているんだから」
「ああ、そりゃそうだな」
僕とトブワレは、何千、何万もの死者とすれ違った。
後ろを振り返ると、遥か彼方で、地面と空が溶け合っている。紺色の絵の具を水に溶かした様な濁りだ。
何十年もの間旅して来た感覚と、つい数秒前までは崖の上に立っていたという感覚が、未だに共存している。
トブワレの巨大な手が、勢いよく僕を弾いた。
人形みたいに、地面を転がった。
トブワレの腕に、死者が噛み付いている。遥か昔にすれ違った、室町時代の人だ。
「ずっと後をつけていたらしいな。ちゅう事でまさお、ここでお別れだ。出口はすぐそこだから、いってこいよ」
「トブワレは?」
死者は、トブワレの腹の肉を千切っている。腹わたが、ボトボトと溢れていく。
「どちにしろ俺までついて行くわけにゃいかねぇからな。こいつらを崖にぶち込むのも俺の仕事だからよ」
そう言って、トブワレは死者の頭を叩いた。骨の折れる音がして、死者の首が百八十度回転した。
まだ、トブワレの肉を咀嚼している。
「戻ったら、ダチの事を一発ぶん殴ってみろ。少しは痛みが分かるかも知れねぇ」
「それも悪くないね。奥さんに会ったら、よろしく伝えておいてよ」
僕たちのあいだに辛気臭さはなく、束の間の別れのようにさっぱりとしていた。
間もなく地面が無くなった。
僕の身体は、どこまでも深い暗闇の中を、小舟のように漂っていった。
それは心地の良い、昼の眠りみたいだった。
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