第2話
そんな葉月とアサマさんに、かつて部隊を壊滅させられたシンジという人物がいる。シンジはある護衛任務を受けていた。ホテルに案内され、その一室で説明を受けることになった。
男は来客であるシンジに気を使い、部屋を明るくした。普段は電灯を点けないらしい。汚い部屋だ。床に縮れ毛が散らばっている。男は髪も縮れ毛であるから、陰毛ではないかも知れない。でも陰毛かも知れない。部屋のそこかしこに気色悪い染みがある。煙草らしき灰が落ちている。土足でいいと言われたのが救いである。ここで靴を脱げと言われていたら、いくらなんでも契約を破棄していただろう。
「汚くて申し訳ない」
「いえ」
「そこの椅子は来客用です。嫌じゃなければ座ってください」
示された椅子は相対的には綺麗に見える。シンジは大人しく座った。
「あんまりこの部屋にいたくないでしょうから、手短に話します」
大変助かるが、うなずくわけにもいかない。曖昧に口を歪めるしかなかった。
「僕の名前は繁在家(ハンザイケ)。ここが僕の仕事場です。僕らの仕事は、簡単に言うと、場所が誰にも知られていなくて、かつ脱出できない宿の提供ってところです。これ、宿の利用者たち」
繁在家が示したモニタ画面には、部屋の様子が映されている。キーボード操作で画面を切り替えていくと、同じ間取りの、違う住民の映像になる。住民は全員女性らしい。最後に切り替えた画面では、女性が何か喚いている。学生服を着ている。音は出ていないから、喚いている内容は分からない。
「何か言っていますね」
「言ってる。聞いてみますか」
繁在家の操作で音が出る。
【必ずお父様が場所を見付けます。覚悟を――――】
音が小さくなった。繁在家が半笑いである。
「この子ずっと同じこと言ってる」
「場所を見付けるそうですが」
「見付けるそうですね」
繁在家はにやけ面を崩さない。決して見付からないという確信があるのかというと、そういうわけではない。そのあたりシンジは既に説明を受けている。この繁在家という人物は、彼含む三名を中心として、監禁請負業者を経営している。彼らの業務は、監禁対象の人物を引き渡されるところから始まる。移送担当が追手を撒き、監禁対象をこのホテルの一室まで運び込む。部屋は監禁用に改造されている。もう一人の担当が、ホテルの監視システムを管理している。この人物が社長である。繁在家は何かと言うと、医療スタッフである。監禁対象が体調を崩した際、自害を試みた際など、救命措置を行う。監禁対象に死なれると面倒が多い。部屋も汚れる。
仮にその、お父様なり誰なり、恋人とか探偵とか、そういうのに場所を見付けられたとしても、彼ら三人は場所を提供していたに過ぎない。極悪犯罪組織は別にある。三人は逃げれば済む話だし、捕まっても厳罰はない。そもそも追手は移送担当が撒くことになっている。繁在家は監禁請負業者の医療請負人でしかない。当事者意識が薄い。
「実際場所がバレそうで、近々襲撃されるみたいです」
それでシンジが呼ばれた。本題に入る。
「護衛対象は繁在家様のみ、一名と聞いています。この建物の住民までは守れません」
「結構。この宿は放棄です。他にもありますし。ここは古くなってきましたから」
繁在家はにやけ面のまま、監禁された女性たちを眺めている。
宿が破棄された場合、この女性たちはどうなるのか。女性自体は別にどうなったって構わないが、それぞれについて監禁を依頼した顧客が存在する筈である。その顧客の恨みを買って、襲撃者が増えるとなると、話が変わってくる。
「住民を放棄して、依頼者から恨みを買いませんか」
「ああ。交渉済みたいです。迷惑料を払ってあるそうで」
シンジは一旦うなずいた。安心できないが、この男にこれ以上聞いても仕方がない。この男に聞くべきは、この男の責任範囲のことだけである。
「繁在家様もこの場所から逃げればよろしいのでは?」
襲撃を受けると分かっているのにわざわざ居残る理由は無い。まずは逃げて安全を確保するのが常識的対応である。襲撃者が分かっている場合は、逆に襲撃して排除してしまった方がより安全である。
「相手が法を犯していないんですよ。今のところ」
「成程。非営利団体か何かですか」
「ええ。女性の権利を守る何とかかんとかいうやつに粘着されているみたいでして」
繁在家は肩をすくめながら、「男性もいることあるんですけどね。男性の権利はいいんすかねぇ」とぶつぶつ言っている。人権は大事であるから意識的に守ろうとするのは大変結構である。女性の人権は無視されてきた歴史があるから、反動で強く意識されてもおかしくはない。だが実際問題として、繁在家のような請負人を襲撃してもあまり意味がない。個人的な恨みでもあるのか、ろくに調べずに拉致犯罪の黒幕とでも思っているのか。いずれにしろ襲撃者側もマトモではなさそうだ。
マトモではないが、合法組織に攻撃を行うと警察が絡んでくる。それは困る。一度襲撃してくれれば、立派な犯罪組織である。犯罪組織同士で攻撃し合っても、周りに迷惑をかけない限り警察は絡んでこない。この時代、警察にそんな余裕はない。
「襲撃されてから、報復を行います。あ。依頼書の通り、護衛までで結構です」
報復請負は個人的な恨みを買いやすい。とばっちりである。シンジも内容によっては引き受けるが、専門の報復業者に委託した方が通常スムーズである。繁在家は不清潔な男ではあるが、業界の流儀には理解があるようだ。
「女を守る何たらの、正式名称は分かりますか」
「ああ、たしかホームページがありますよ。ちょっと待ってくださいね」
繁在家は目の前で検索し始めた。
準備猶予は短くなりそうだが、対象の組織が雇いそうな部隊の候補ぐらいは挙げておきたい。非営利団体なら大して金は無い筈だから、大手ってことはなさそう。情報屋の霞さんに聞けば何か知っていると思う。
繁在家の護衛開始は三日後である。それまでに集められる限りの情報を集めたい。霞さんに敵対傭兵の候補リストは出して貰った。霞さんがリストを出す時は、対象が含まれている成算が高い時だ。安い金で襲撃を請け負う部隊の候補はそう多くない。このリストの中に今回の相手がいる。嫌な予感がする。よく知った部隊の名前が入っている。その部隊が相手のような気がする。
ところで、霞さんの職場は高層ビルの中ほどの階にある。霞さんは次の商談があるというのでシンジとは別れた。直後、シンジは急激に便意を催す。便座が温かくないと通じが悪いので、上階の綺麗なトイレで踏ん張りながらリストを見ていた。つまり長時間トイレにいた。
すっきりしたシンジがエレベーターに乗る。エレベーターが途中で止まる。霞さんが商談に使う喫茶店のある階である。誰かがそこで乗るということだ。シンジは誰が乗るのか何となく見ていた。
葉月も誰が乗っているのか何となく見てみた。目が合って固まった。
知っている人。アサマさんが以前ボコボコにした人。シンジさん。葉月も顔を見られている。この人の仲間を大勢殺してしまったから、たぶん恨まれている。だって目つきがやばい。葉月が気付いて「あ」と声を出してしまったのも良くなかった。黙っていれば人違いで済ませられたかも知れない。前に会ったのは五年前のことである。葉月は十二歳で、すなわちロリであった。聞くところによれば、ロリとロリでないのとでは全然違う筈である。だから面影を見ないでほしい。
エレベーターの扉が閉まり始めて、お互いの顔が隠れる。葉月はほっとした。
びっくり箱みたいに、閉まる扉の向こう側から手が伸びてきた。葉月はひえっと悲鳴を上げる。扉は慈悲なく再び開いた。
「どうぞ」
「ど」
葉月の思考がぐるぐる回る。まだ挙動不審な女ということで誤魔化せるかも知れない。すると乗ってしまった方が身元がバレなくてよい。でも今更手遅れではないか。でもどっちにしろここで戦闘なんか仕掛けてこない筈だ。霞さんに迷惑をかけたら出禁になる。シンジさんは割と常識的な人だって、アサマさんが言ってた。でも恨まれてるし、分かんないかも。でも。
「どうも……」
葉月は乗ってしまった。乗ってすぐに、乗らない方が良かった気がしてきた。乗ったリスクに対して、乗らないリスクはほぼ無いんじゃなかろうか。テンパる癖が抜けない。やっぱりアサマさんがいないと何もできない。
シンジさんが高速の指さばきで閉まるボタンを押した。もう逃げられない。
ひとまず壁に背中を預ける。シンジさんの動きを見張る。シンジさんは葉月の方を見もしないけど、視界には入れていると思う。葉月の武器はロングスカートの内側にある。シンジさんの方は、シルエットからしてたぶん脇の下にある。同時に動けばシンジさんの方が速い。スカートの内側に隠すとシルエットからバレにくいけど、こういう時不便である。
どうシミュレーションしても勝ち目が無い。こんな狭い場所で二人きりになったのがそもそも間違いだ。馬鹿すぎる。無理無理助けて。なんでアサマさんいないの。やばいってば。
「視力落ちた?」
「……え?」
シンジさんが何か聞いた。シンジさんは自分の両目を指で示した。
「眼鏡」
葉月は戦慄する。バレてる。完全に憶えられている。これは眼鏡じゃないけど、可能な限り情報は与えたくない。何て言おう。何て言えばいいですかアサマさん。あ、いないかー。
「伊達です」
嘘をつくことにした。葉月は大変賢い。
「ああそう。似合うね。可愛い」
シンジさんは心底興味無さそうに褒めた。嘘でももうちょっと気合を入れてほしい。
「どうも……」
その後の会話は無かった。
地上階に着き、シンジは扉を押さえて先を促した。自称伊達眼鏡の小娘はなかなか降りない。仕方が無いからシンジが先に降りた。いかに小娘といえど、五年以上業界にいる。こんな場所で戦闘を仕掛けるほど馬鹿ではない筈だ。
出くわした際、まさか乗ってくるとは思わなかった。余裕の表れと見える。傭兵なら両手を空けておくのが普通だが、ずっとパーカーのポケットに手を突っ込んでいた。直接前に出て戦うタイプではないから、ポケットの中に何か仕掛けでも持っていたのかも知れない。
ダメもとで声をかけてみたのは、知り合いかどうか確認するためである。無視が普通だが、余裕しゃくしゃくで答えやがった。どうやら、今回の相手はあの小娘で間違いない。また全滅させてやるとでも言いたげな勝気な態度である。やはりあのアサマの弟子だ。アサマがいなくなっても、一筋縄ではいかない。嫌な予感は当たった。
ところで、シンジは背が高い。職業上、注意深く歩きはするけど、不規則に動く子供を避け切れなかった。避けようとしたのに腰にぶつかってきてびっくりした。刃物でも突き立てられていたら死んでいる。シンジは自分の不注意を大いに反省した。
小さい女の子である。妙に気配が薄い。女の子は転んでしまい、周りの大人が迷惑そうに舌打ちした。シンジは気の毒に思い、手を差し伸べて起こした。
「ごめんよ。おじさんがぼんやりしていた」
少女は何も応えない。目蓋が半分閉じていて眠そうである。
「大丈夫?」
シンジが尋ねる。少女は首を傾げた。言葉が通じないのだろうか。
「あー。それじゃあね。本当にごめんね」
流石にシンジも暇ではない。置いて歩き去ることにした。
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