勧善懲悪するストーカーと貧しい傭兵たち

紺野 明(コンノ アキラ)

第1話

 駅から自宅までの道のりが長すぎる。街灯と街灯との間隔が長すぎる。それもこれも、何もかもが疲弊のせいである。始業時間から終業時間までが長すぎる。上長の小言が長すぎる。非効率な作業と閉鎖的な職場。これが定年までずっと続く。本日只今も最終電車を降り、帰路を辿っている。足取りは重い。家が遠い。這いずっているのと同じくらいに歩みが遅い。

 ストレスの解消手段は人による。同僚は牛丼屋で特盛を食べて、コンビニでお菓子を買い、食べながら深夜にゲームをするそうだ。食が細い彼にはそれすらできない。

 女性が一人でいるのを見つけたら、彼はぶつかるようにしている。上手に重心を捉えれば転ばせることもできる。彼はずいぶん上達した。女性が転んで起き上がれないのを見ると高揚する。起き上がれないのは怪我をしたからかも知れない。精神的なショックかも知れない。あるいは、彼と同じように疲弊しているのかも知れない。彼と同じ時間に帰路にいるような女性である。そういう疲弊した女性は抵抗力が弱い。これを狙うと成功率が上がる。

 その夜は少女を見かけた。子供がこんな時間に出歩くべきではない。危ない大人はそこら中にいる。啓蒙すべきだと彼は考えた。少女は防寒具で着膨れしている。着膨れした上半身に対し、支える両の脚は鶴みたいに細い。つまり転ばせるのが容易である。彼が歩みを速めるだけで、充分追い抜かすことができる。当然避けて通ることもできる。まるで避けて通ろうとしたかのように、彼は肩の向きを変えて通った。勿論避ける気は無い。避けるフリである。彼はポケットに手を入れているから、肩や腰よりも先に肘が当たる。少女の肩と彼の肩では高さが違うから、肩はそもそも当たらない。

 避ける気の無い肘が少女の肩を打った。少女は歩くために足を上げた直後であった。重心だけが急激に前進し、少女は正面から倒れた。着膨れのおかげで衝撃は吸収されるだろう。反射で手を突くから大抵は顔も大丈夫だ。膝あたりは擦り剥くと思う。不意を突くと深い傷になるものだ。

 彼はちらりと振り向いた。ちょっと気にしているフリである。併せて対象を観察する。

 少女は地面に座って、自分の膝を確認している。泥が付着している。暗くて、血が出ているかまでは見えなかった。残念である。であるが、少女が不愉快そうに顔を顰めている。その顔は大変素敵であった。

 これでもう少し頑張れそうだ。彼は満足した。

 時間貸し駐車場がある。彼はその横を通る。いつも同じセダンが停まっていることを彼は意識していない。そのセダンには人が乗っていない。故にヘッドライトが彼を照らすことは通常あり得ない。

 彼は照らされた。視界を焼かれて奪われる。

 次に身体が浮いた。彼の身体はボンネットを転がり、逆に転がり直して地面に落ちる。

 混乱で手を突くことすらできなかった。まずは鼻が潰れていることが分かる。次に全身の激痛に呻く。セダンは後退している。彼は運転者の暴挙を憎み、運転席を睨んだ。先述の通り、運転席に人はいない。彼は虚空を睨んだ。

 後退したということは、前進するということである。彼はそれを理解していなかった。エンジンの轟音が急発進を意味することにすら気付かなかった。自分の状況を理解しないまま、彼の肉体は轢き潰された。

 理解していたのはセダンを操っていた人物だけである。その人物は自室にいる。咥え煙草のまま珈琲をすすっている。この人物が彼を轢き潰した。名前は複数持っている。よく知られているのはアサマという名前である。

「人にぶつかったら、謝るべきだ」

 アサマは正論を言った。



 少女の名前は怜子(レイコ)という。背が低く、人に気付かれにくい。十一歳。通常ものを喋らない。ごく稀に言葉を発する際は、首を傾げて不安そうに喋る傾向にある。アサマはこの仕草を、相手に人語が通じるか心配、という仕草だと考えている。怜子は自分だけが人間に値すると考えているに違いない。彼女以外の人間は、人の形をした機械か何かである。アサマは彼女と同意見であった。

 アサマは彼女を観察している。彼女が学校にいる時も、図書館にいる時も、歩いている時も、座っている時も、勉強している時も、音楽を聴いている時も、シャワーを浴びている時も、用を足している時も、意味無く空を睨んでいる時も、遠くの蟲を掴もうとしている時も、秒針に合わせて鼻の頭を叩いている時も、冷蔵庫の中の匂いを嗅いでいる時も、毛先の雫を、父親の指を……………………。

 アサマは車を複数所持している。複数とは二つ以上ということである。上限は無い。車にはカメラを搭載できる。車は移動することができる。車は売ることができる。そして、怜子の自宅にも当然車がある。車はアサマの延長された目であり、足であり、意志である。意志には志向性がある。志向的な意思は人の精神の本質である。アサマは怜子への意志である。ただし、アサマは怜子への関わり方を決めている。その方法以外において、アサマは怜子の世界に存在してはならない。

 怜子にぶつかった人物が謝らなかった場合、アサマが粛正する。

 怜子はよく人にぶつかられる。ぶつかった人物の行為が随意的か非随意的かはアサマには分からない。怜子は小さく、背の高い人物からは見えないことがある。不規則的に動くため避けることも難しい。だから、非随意的にぶつかってしまうことも当然あり得る。その場合は、謝るべきである。当たり前だ。謝った人物はアサマの粛正対象にはならない。怜子の世界に存在を許される。謝らなかった場合は当然許されない。

 対象が一人なら、乗った車で事故を起こさせる。二人以上なら、片方にもう片方を轢かせる。車に乗らない人物なら、空の車で轢く。状況に応じて手順を考える。

 それだけがアサマの人生である。だが生まれてからずっと怜子を見てきたわけではない。怜子は十一歳であり、アサマは十一歳ではない。それよりもずっと長く生きている。アサマが怜子を初めて見たのは、怜子が十の時である。アサマにはそれ以前の人生がある。アサマの現在の技術は、その以前の人生で修得したものである。

 アサマはかつて傭兵であった。



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 そんな伝説の傭兵ことアサマさんに捨てられてから一年が経とうとしている。葉月はアサマさんの住所を調べ上げたし、アサマさんが見知らぬ少女を監視しているところのモニタ画面を、電子的な裏口から盗み見ている。引くほど多彩な角度から、アサマさんはその少女を観察している。この画面を見ていれば葉月にも流石に分かる。つまり、なんで捨てられたのかが分かった。全く見当がつかず、アサマさんの友人知人を手あたり次第に尋問した結果、おおよそ同じ答えが返ってきていた。あるいははぐらかされていた。あの答えが正しかった。はぐらかした人も本当は分かっていたのだと思う。

 アサマさんはロリコンである。葉月はロリじゃなくなったから捨てられた。

 そんな筈は無い。確かに恋人はずっといないみたいだったけど、アサマさんは女の人に興味がないだけだ。と都度否定してきた結論に、自分でも行きつくことになるとは思わなかった。葉月がアサマさんに拾われたのは十歳の時で、捨てられたのは十七歳の時である。おおよそ、その辺りがアサマさんの好みということになる。葉月には今更どうしようもないが。

「おのれ…………」

「爪を噛む癖が直らないね」

 向いの席に人が座った。アサマさんではない。アサマさんはもはや葉月に興味が無い。呼んでも会いに来てくれない。住所は見つけたのだから、乗り込むことはできる。でも、行ったら何と言われるだろう。あんまり冷たいことを言われたら、立ち直れないかも知れない。さりげなく、何かのついでみたいに行けたらいいのだけど。

「あのねぇ葉月ちゃん。俺来たんだけど。お客様だよ?」

「う。はい。わざわざご足労を……」

「違う。フード脱げ。ヘッドホンも外せ。眼鏡も。それ伊達だな?」

「伊達、じゃなくて。これ、ウェアラブルの、モニタで」

「で?」

「すみません。外します」

 商談相手の霞(カスミ)さんが、来るなり矢継ぎ早に葉月を叱った。フード脱げ、のところで葉月のフードを摘まんで引っ張った。葉月はびっくりしてつんのめった。ヘッドホン外せ、のところで乱暴に耳から引きはがされた。髪が引っ掛かって「痛っ」と抗議してみたが、霞さんは意に介してくれない。以前はもっと優しかったのに、急にこの仕打ちは酷い。それもこれも、葉月がロリじゃなくなったせいだと思う。

「怖いおじさんの横にいたから許して貰えていたけど、これから一人なんだろ?」

「……はい」

「じゃあちゃんとしなきゃね。そんなんで契約取ろうなんて片腹痛いよ」

「……はい」

「どっちにしろ今回の契約更新は断るけどね」

「……はい。あ、え、そんなっ」

 霞さんは煙草に火を点けた。法律上、喫茶店は全席禁煙の筈だけど、全席に喫煙者がいる。そういう店、ということみたい。アサマさんが嫌がったから、以前は霞さんも吸わないでくれていた。葉月は涙目でケホケホと咳こんでみたけど、完膚なきまでに無視された。

「当たり前でしょ。ずっと同じとこと契約するのはダメ。そういうルールだ」

「でも、今までは」

 今までは霞さんの会社と、アサマさんと葉月の傭兵部隊は契約を更新し続けててきた。今回も更新してくれる筈、というのが寄る辺のない葉月の希望だったのだ。それが打ち砕かれようとしている。これもロリじゃなくなったからか。

「今までは、うちの経営が安定していなかったから、ルールに従う余裕が無かった」

「そんなルール。誰も守ってないです」

「大手になるには必要な手順なのよ。そうやって市場を回すわけ」

「でも」

「でもじゃない。もうアサマさんいないんでしょ」

「う」

「葉月ちゃんだけで今までと同じ働きできる?」

 煙草の熱い方を顔に当たる直前まで突き出される。葉月は腰を抜かしながら身を引いた。

「け、契約金は、ご相談させていただくので」

「安いとこ使う理由無いんだわ。もう」

「う。ええと、あの。うぅ……」

 何も言い返せず、唸ることしかできなかった。十七にもなって、あまりにも情けない。こんなに厳しく言われると思っていなかった。覚悟していればもうちょっと冷静に喋れたと思うけど、面食らって泣きそうになっている。これが社会の厳しさということか。そんなのとっくに知っているつもりだった。でも、今までは誰もが手加減してくれていたのだ。ロリだったから。

 霞さんは楽しそうに口の端を歪めている。サディストなのかも知れない。

「と、虐めてみたけど、もしかしてアサマさんの情が一ミリくらい残っていて、君が大袈裟に告げ口したら」

 急に不安になったらしく、霞さんは細い眉を困らせた。

「運悪く、たまたま、アクセルとブレーキを間違えた老人が俺をミンチにするかも知れないから」

 煙草を揉み消している。

「安い人材を探してそうなところなら紹介してあげるよ」

「します! 告げ口します!」

 葉月はここぞとばかりに身を乗り出した。額に拳骨を食らった。

「いったぁ……」

「するな。するなら紹介しないぞ」

「しません。ごめんなさい」

「よろしい」

 霞さんはその場で電話を一本かけて、どこかに話を通してくれた。

 部隊のネームバリューにより、前向きに検討してくれるとのこと。アサマさんがいたから、部隊自体は有名である。アサマさんの威光が残っているうちに、なんとか長期契約を掴まなければならない。

 葉月も緊張しつつ、電話相手と会話してみた。優しそうなおじさんである。女性の人権を守る何とかかんとか、という非営利団体。長くて憶え切れなかった。葉月も女性である以上、人権を考慮してくれそうである。ロリではないとはいえ。

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