私は不倫に向いてない

山南こはる

第1話

 ただ、想うだけでいい。

 最初はそうだった。でも気づけば、感情は胸の中で大きくふくらみ、私自身ですら、もはやいうことを聞かせるのは、難しくなっていた。


 ことのはじまりは去年の今ごろ、いいや、もう少し後だったかもしれない。たしか十一月だ。そう、十一月の最初の水曜日の夜のことだった。

 私は水曜日の夜だけ、自由を与えられている。ノー残業デーというやつで、夫が早く帰ってくるからだ。

 日中、私には自由がない。平日はパートに出かけ、帰ってくれば、長男の迎えに行かなければならない。今年で十歳になる長男は脳性まひがあり、今でもなお、生活面の世話が必要だ。

 子どもは他に、中学二年生の長女がひとり。優秀だがかんしゃく持ちの、他人の感情に敏感な娘。このごろは反抗期まっ盛りで、満足に会話することもない。

 家族のことは愛している。ええ、愛していますとも。でも、それと彼への感情は、まるっきし別問題だ。家族のことは愛している。彼のことも愛してる。

 ただ、“どちらか一方を選びなさい”と神さまに言われたら、どちらを選ぶのか。私は迷う。少なくとも自信を持って“家族だ”と答えるほど、私は彼らを愛していないような気がする。


 梨木なしきくんと再会したのは、十一月の最初の水曜日の夜だった。

 長年、近所にあった旧市場の跡地が取り壊され、大型のショッピングモールになったのは、九月の下旬だった。最初の一ヶ月はポストに広告が舞い込み、大人も子どもも、誰もがショッピングモールに夢中になった。

 一ヶ月経ち、町のモールブームは下火となった。それでも毎週末には広告が入ってくる。夫はその手のスポットには興味のない人だったし、娘はもう、友だちと行ったそうだ。

 水曜日の夜、私は主婦業から解放される。母親という呪縛を解き放たれる。何より長男の介護をしなくていい。それが嬉しかった。

 いつもは車で隣町の映画館に行っていたのだけれど、この日はくだんのモールに赴いた。オープンして日が経っているし、平日の夜だ。映画館も混んでいるということはあるまい。

 べつに、取り立てて映画が好きだというわけではないのだ。ただ他に、これといって熱心になれる趣味や楽しみがないだけ。夫のノー残業デーがべつの日なら、たぶん、映画なんて見ないだろう。だって水曜日は、レディースデーだから。

 この日、チケットを買ったのは先週末に封切りされた邦画だった。売り出し中の若いアイドルと女優がW主演の、マンガが原作の恋愛映画だ。

 私はチケットに書かれた数字を確認し、指定された座席に滑り込む。いちばん右端の席。ここなら誰にも邪魔されないで、ひとりになれる。妻でも母でもなく、ひとりの人間としての、私。水曜日の夜だけ、私は私から自由になれる。自由というガラスの靴をはいて、どこまでも飛んでいけるような気がする。

 ポップコーンも飲み物も買うことなく、私は予告が流れるスクリーンを見つめる。だから最初、隣の席に座ったその人のことになんて、なんら注意を払っていなかった。

「あれ? 倉島くらしまさん?」

 私のことを旧姓で呼ぶ人間が、隣にいる。それでようやく、隣に視線を移した。これだけ空いている劇場内で、わざわざ人の隣の席を購入した人間の顔を、まじまじ見つめた。

「ああ、やっぱり倉島さんだ」

 館内は薄暗い。私は目を瞬いた。そしてある人物に思い当たる。かつて女子中学生時代に憧れていた同級生の男の子を二十五ばかし歳を取らせれば、たぶん、この顔になるのだろう。

「梨木、くん……?」

 驚きと懐かしさのあまり、声の端が震えた。


 映画がはじまる前の十分間、偶然の出逢いをはたした私たちは、簡単な近況報告をし合った。

 彼はそこそこ有名な企業に勤めるサラリーマンで、妻と一人娘とともに、両親と二世帯住宅で暮らしているらしい。

「せっかく近所に映画館ができたんだから、一度、来たいと思っていたんだ」

「映画、好きなの?」

「いいや、それほどでもないよ。ただ」

「ただ?」

「ひとりになりたい時に、見に来るんだ」

 彼のその言葉と同時に、館内の照明が落ちた。




 梨木和契かずひさは、私たちの学年でも、よくモテた方だったと思う。

 私は当時も、そして今も、地味な女だった。ただ実家はそれなりに裕福で、ちょっとばかしピアノが上手いだけの、そんな女。パッとしない、オシャレでもない。学業に秀でていたわけでもなく、スポーツ万能だったわけでもない、それだけの女の子。それが、私だった。

 だから梨木くんが私のことを覚えていてくれたのは、素直に嬉しかった。当時の私ではない。二十五年分も歳をとった私の顔を見て、私だと気づいてくれた。それがただ純粋に、嬉しかった。

 結婚は早い方だった。夫は父の会社の人間で、勧められるがままに縁談が決まった。夫を愛していないわけではない。だが少なくとも、恋したことはなかった。それで十分だと思っていた。自分は幸せだと信じていた。


 次の水曜日も、その次の水曜日も、ショッピングモールに足を運んだ。興味のある映画があったわけではない。もしかしたらまた、梨木くんに会えるかもしれない。そんな淡い想いを抱いて、普段よりも少しだけオシャレをして、出掛けていく。

 水曜日の夜、私は今だけお姫さまになる。

 夫以外の男性にときめく。これだけなら、不倫にはならないわよね?




 そうやって私たちは、水曜日の夜の映画をともにし続けた。連絡先を交換し、どの映画を見るかも決めた。私がどの席を取ったか連絡すると、彼はその左隣の席を購入する。

 だけど、たまには例外もある。彼が来られない時もあったし、思いのほか盛況で、ちょうどよく隣の席が空いていなかった場合もあった。

 だからある時から、席は私がネットで予約するようになった。タイミングを見計らって、すれ違う時に、スッとチケットを手渡す。まるでスパイだ。でも用心するべきだ。ここは近所で、私たちは家庭もち。私はスパイなのだ。主婦兼パート、でも本当はスパイ。少しくらい、夢を見たっていいだろう。だって今日は水曜日なのだから。水曜日の夜は、私は自由なのだから。


 開場すると、私が先に入る。後から素知らぬ顔で彼が入ってきて、隣に座る。はたから見たら、まるで他人同士。喋る時も小声で、なるべくたがいの顔は見ないようにする。家の近所の映画館。誰がどこで私たちのことを見ているか分からない。用心することに、越したことはない。

 映画が始まると、私たちは二人とも、それぞれ映画の世界に埋没していく。それでもときおり、彼の右手が、ひじ掛けに置かれた私の左手に、そっと重なることがあるのだ。そんな時、私は不意に胸の高鳴りを感じる。キュッと胸が締め付けられるような、だが決して不快ではない、不規則な鼓動。

 それだけだ。それ以上のことは起こらない。何も。私も彼も、平凡ではあるが家庭を持っている。水曜日の夜が終われば、魔法は解ける。また木曜日がはじまって、平和だけど、ちょっと飽き飽きしてしまうような毎日が、ひたすらに続いていく。

 映画が終わると、彼が先に席を立つ。私たちは決してあいさつを交わさない。ただ立ち上がる間際に、必ず彼は、私の手を二回、とんとんと叩くのだ。今日はありがとう。いいえ、また来週。言葉を介さない、二人だけのコミュニケーション。二人だけの世界。スクリーンを見ながら、私は毎週思うのだ。この水曜日の夜が永遠に続けばいいのに。

 彼が私のことをどう思っているのか、いまだに分からない。昔から堅実で、火遊びをするような人では決してなかった。でも好意がなければ、毎回隣の席を購入したり、手を重ねてくることなんて、普通はしないはずだ。私は自信を持っていい。ひとりの主婦として埋もれていくだけの私を、梨木くんは女としてすくい上げてくれた。

 ただ想うだけでいい。それだけでいいのだ。その先なんて、何も期待してはいけない。

 だから私は今日も少しだけオシャレをして、夜の映画館へ出掛けていく。その後ろ姿を不審な目で見送る、娘、千恵ちえのことにすら気づかずに。








 お母さんがおかしいって気づいたのは、今年の春休みあたりから。その前からなんとなく楽しそうにしているなって思っていたけれど、べつに気にならなかった。お母さんが楽しい方がいいに決まっている。その方が、家族の雰囲気が良くなるから。

 でも、それにしたって最近のお母さんは浮かれすぎていると思う。たぶん、家族の中で、それに気づいているのはわたしだけ。だって弟には障害があるし、お父さんはお母さんに関心がないから。人のことを決めつけるのはよくないことだけれど、それでも分かるものは分かる。お父さんとお母さんは、もう愛し合ってなんかいない。でも二人が、他の人を愛しているっていうのは、何となく想像できなかった。

 そのことを友だち二人に相談した。香織かおりとみずほちゃん。二人は真剣に考えてくれたんだけれど、そんな大人の恋だとか、不倫だとか浮気だとか、わたしたち中学生には、ちょっと難しすぎる。それで香織が言ったんだ。お母さんが本当に不倫しているのかどうか、確かめてみたら? って。


 なるほど、いいアイディア。だからわたしは決行したわけ。

 水曜日の放課後、早く帰った。お母さんがパートから帰ってくるのを確認し、出掛けるようなそぶりをする。

「あら、どこ行くの?」

「香織の家。みずほちゃんと三人で、ピアノの練習するの」

 九月の下旬。合唱祭に向けての練習が激化するこの時期に、なんでわたしはお母さんの不倫疑惑を確かめにいかなくてはならないのだろう。

「そう、じゃあ気をつけて。お母さん、出掛けるから」

「また映画?」

 お母さんはいつも映画を見に行く。でも内容を訊くと、なんだかいつもあやふや。たぶん、他のことに気を取られていて、あんまり真剣に見ていないんだと思う。さもなくば、本当は映画なんて見ていなくて、どこかでよその誰かと会っている、とか。

 トートバッグの中をちゃんと確認する。目当ての品は仕入れてきた。香織のいとこの助言だ。

 わたしは自転車にまたがって、ショッピングモールに向かった。どうかわたしの鈍くない勘が、たまには外れてくれますように。






 昨日、千恵が何やらキッチンのゴミ箱をガサゴソと漁っていた。わけを問うと、まだ必要だったプリントを、間違って捨ててしまったという。

 意地汚い娘。きっと主人に似たのだ。私じゃない。梨木くんの娘さんは、そんなことしないだろう。だって彼の娘さんなのだから。

「梨木くん、ご家庭の方はどうなの?」

 もうじき館内は暗くなる。水曜日の夜、周囲の空気は色めき立っている。

 先々週に封切りされた洋画の字幕版。席はぽつぽつと埋まってはいるが、端っこの席に座っているのは私たちだけだ。

 彼の返事が聞こえる前に、照明が落ちる。

「そうだな。娘が反抗期だからね、なかなか難しい」

 薄暗くなる館内。私たちの真後ろの席に、人が滑り込んできた。若い女性だが、暗くてどんな格好をしているかまではよく見えない。

「お嬢さん、おいくつ?」

「中一だよ。S学園に通っている」

 S学園。市内で唯一の私立中学だ。千恵に受験させるのも考えたが、あの子はあまり勉強が得意ではない。

「妻の希望でね。僕は反対したんだけど」

「奥さま、何をなさっていて?」

 声色が思わずやわらかくなる。普段の私なら、こんな声は出さない。少なくとも、家庭の中では。

「バリバリのキャリアウーマンってやつだよ……。伊藤麻衣子いとうまいこ、覚えていない?」

 不意に上がった中学時代の同級生の名前。私は胸がときめいた。麻衣子さんっていったら、学年一のマドンナではなかったか。

「ええ、覚えているけど」

「彼女だよ、僕の妻さ」

 後頭部をガツンと殴られたような衝撃が、心に響き渡った。

 憧れの梨木くん。彼の隣にいるのは、あのマドンナの麻衣子さん。私みたいな地味な主婦じゃなくて、今も昔も華やかな、生き生きとした働く女性。梨木くんは麻衣子さんを選んだ。麻衣子さんは梨木くんに選ばれた。麻衣子さんの顔を思い浮かべる。ただの美人ではなかった。いつだって自分の強い意思を持つ、誇り高き女性の横顔。

 もう一年近く、こうやって並んで映画を見てきたけれど、私は彼のことを、何も知らない。

「倉……、ああいや、松井まついさんはこのごろ、どうなの?」

「ううん、今は倉島って呼んで」

 旧姓で呼ばれれば、家族のことを忘れられる。妻としてでも母としてでもなく、女として生きていたい。今だけは、水曜日の夜だけは。

 私の手の上に、彼の手が重なる。骨ばって大きな、男らしい手。こうやって優しく男性に触れられることで、私はまた生きる強さを取り戻していく。

「でも、妬けちゃうわ。麻衣子さんが奥さんじゃ、私、勝てっこないもの」

 それでいい。勝てなくていいのだ。そう思えば、私は自分の心にストッパーを掛けられる。もし勝ち目があったなら、私は勝負に出ていたかもしれない。今ある幸せのすべてを捨ててでも、私は麻衣子さんの手から、梨木くんを奪いにいったかもしれないのだ。

「そんなことないさ。倉島さんは麻衣子とは違う」

 彼の言葉に、熱がこもる。彼は私の方を向いた。映画がはじまる。だが彼はスクリーンには向き直らず、左手で私のあごを持ち上げ、低い声でささやいた。

「愛している」

「……」

 私も、とは言えなかった。言いたかった。でも上手く言葉にできない。

 少し見つめあって、やがて私たちはゆっくりと唇を重ねた。まるでもともと一つだったものが、再会して溶け合うような感覚を覚える。ミルクとチョコレートが温かく混ざり合うような、甘さに満ちた、歓喜。

 もう、何もなかったなんて言うことはできない。ただ想うだけでいいだなんて、そんなぬるいこと、もう言えない。彼と一緒になりたいと思った。彼とともに生きていきたいと、心の底からそう思った。愛していない旦那なんていらない。かわいげのない長女も、いつまでも介護が必要な長男も、もういらない。身勝手だとののしられても構わない。世間体なんて知ったことではない。彼といたかった。一分一秒とて離れたくなかった。

 もし神さまが時間を巻き戻してくれるなら、何だってしただろう。中学時代に巻き戻してくれるなら。私は必ず、伊藤麻衣子に勝ってみせる。勝って必ず、梨木くんを手に入れる。この平凡で安定しているけれど、つまらない人生なんて捨てられる。喜んで、私は梨木くんがいる人生を選ぶ。

 映画が終わるまで、私たちはキスをし、抱き合っていた。

 その姿を無言で見つめる、あるひとりの人間の存在には、まったく気づかなかった。




「ただいま」

 真っ暗な玄関で、誰に言うわけでもなく呟くと、居間から明かりが漏れていた。時刻は十一時。主人は息子を寝かしつけ、そのまま一緒に寝ているだろう。だとしたら千恵だろうか。

 彼女はいつも夜更かしで、たいがいは部屋にこもって形ばかりの勉強か、譜面をめくるか、友だちと長電話に勤しんでいる。居間にいるのは珍しい。

 テレビの音も、誰の声も聞こえなかった。キッチンで水を飲んでから、居間に続く扉を開ける。白熱灯のオレンジ色の明かりが、まな板とともに立ててある包丁に反射し、暗闇を切り取る。

「あ……」

 声を上げたのは私だけ。ソファーに座る千恵。

「遅かったね」

 娘の声は、いつもより硬い。

「何やってるの?」

 私は問うた。声が震えるのを隠し通せない。心臓が早鐘を打ち、口の中がカラカラに渇いている。こんなに緊張を覚えたのは、久しぶりだ。

「どこ行っていたの?」

 千恵は質問を質問で返す。小生意気な娘。かわいかったはずの、私の娘。

「どこって、映画よ」

「誰と?」

「ひとりでに決まっているじゃない」

 そう思い込もうとする。そうすると不思議なことに、本当にひとりで見ていたのだと信じられる。梨木くんは隣にいただけ。たまに手が触れるだけ。食事をしたことも、その後、どこかに行ったことも、一度もない。

「いつも?」

「そうよ、もちろんよ」

「じゃあ、これどういうこと?」

 鋭い視線でにらみ返す彼女の手元には、見覚えのある紙が複数枚。

「……」

 個人情報、宛名の部分だけスタンプで消した、クレジットカードの明細書だった。去年の秋から、先月分まで。映画を予約したときの決済分、すべてにマーカーが引いてある。決済額は、いつも二人分。私がネットで予約して、トイレですれ違う時に、こっそりチケットを渡していたから。ネットで席を予約する。私はとうぜんのように、クレジットカードを使っていた。

 まさか、ここまで調べていたなんて。

「わたしが気づいていないって思ってた?」

「いやね、何言ってるの?」

 声が震えを通り越して、凍りつく。私が恐れたのは、今の生活や平穏が崩れ去ることではない。もう梨木くんと会えない。それがいちばん、恐ろしかった。

「梨木さんっていうの? あの人。……今日、キスしてたでしょ?」

「……」

 言葉が出なかった。どうしてそんなこと、この子が知っているのか。

「お母さんの後ろの席で、わたし、見てたよ。録画もしてある」

 ただの脅しだと思いたかった。でも千恵は慣れた手つきでスマートフォンを操作して、私の眼前に突き付ける。薄暗くなる前の館内。隣り合わせに座る男女。薄暗くなる館内。スクリーンの逆光の中、二人は口づけを交わしている。映像は不鮮明だが、それでも男女の相貌は分かる。梨木くんと私。まるで自分たちが映画の登場人物だと信じているみたいに、周囲のことも忘れて情事にふけっている。

 こんなもの、第三者に見られれば終わりだ。今ならなんとなかる。千恵が、この娘さえ黙ってくれていれば、それで。

「千恵、あなた、それ……」

「お父さんに言うから!!」

 反抗期真っ盛りの、潔癖な娘。言ってどうなるのだ。黙っていれば、少なくとも家庭の崩壊は防げるというのに。

「お母さん、みっともないよ! こんなの汚いよ! 私たち家族のこと、どうでもいいの!?」

「あんたに何が分かるっていうのよ!?」

 稼ぎの悪い、気の利かない夫。かわいげのない反抗期の娘。そして障害のある息子。夫がもっと優しければ、娘がもっとかわいかったら、息子が健康児だったら。上げていけばキリがない。でもそうすれば私は、ここまで梨木くんを想っていなかったかも知れない。

 梨木くんだけが私を認めてくれた。妻としてでも母としてでもなく、女として。そしてひとりの人間として。私の人生の中で、もっとも熱い幸せにときめいていた瞬間。

 もう、想うだけでは難しい。彼を手に入れたい。この家族も、伊藤麻衣子も、障害をすべて排除して。そして彼を手に入れたい。梨木くんを私だけのものにしたい。

 ただ、それだけ。






 お母さんは驚いて、次はショックを受けて、今は打ちひしがれている。でもなんとなく怒っているようだった。

 香織のいとこ、Qちゃんの言ったとおりだった。お母さんは二人分の席を取るために、恐らくクレジットカードを使っているはずだ。わたしの家にシュレッダーはなく、個人情報を見えなくするためのスタンプがあるだけ。Qちゃんは断言した。

「シュレッダーがないなら、名前のところにスタンプを押して、あとの明細は手で切るはずだよ。人間の手には限界があるから、どれだけ細かく切ったって、その気になればいくらだって貼り合わせられる」

 そしてQちゃんは、わたしに念を押した。ぜったいにひとりでお母さんを問い詰めてはいけない、と。でもわたしはその約束を破ってしまった。言い逃れできないように、証拠も押さえた。明細のコピーも、さっき撮った映像も、みんなQちゃんのところに送った。わたしにこの場で映像を消させても、もうムダだ。






「……」

 私の怒りにゆがんだ顔を見て、千恵は席を立った。そして私の横を通ってキッチンへと向かい、コップを手に取る。コップに水を入れる音、それを飲み下す彼女ののどの音。また包丁が、白熱灯の光を反射する。

「……」

 そうだ、まだ手はある。千恵を黙らせればいい。喋れないようにしてしまえばいいのだ。でもどうする? 息子はともかく、今度は夫が黙っていない。やっぱり夫も黙らせなくてはならないのか。

 いいや、夫だけではない。息子だってどうにかしなくては。障害のある子ども。私と梨木くん、二人のこれからの人生に、あの子は重荷だ。

 麻衣子さんにも納得してもらって、彼と別れてもらわなければならない。もう想うだけではムリだから。彼を手に入れなくては、私は私を支え切れない。

「……あした、お父さんに言うから」

 去り際、千恵は低い声でボソッと呟く。

 今だ、もう今しかない。大丈夫、算段は付いている。娘を始末して、そのあとは夫を片づける。ついでに長男も。そうしたら家中を荒らせばいい。通帳と印鑑、どこに隠せばいいのか。警察と私、勝つのはどっちだ。

 一家の葬式に、梨木くんは来てくれるだろうか。同情でもいい。一緒にいてくれるだろうか。

 梨木くん、梨木くん。梨木くん!


 彼への想いだけを胸に、私は包丁を手につかむ。

 そして次の瞬間には、娘の頭上めがけて、右手を振りかぶった――

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私は不倫に向いてない 山南こはる @kuonkazami

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