天使は馬の話しばかりする

イネ

第1話

 誰でもそうですけれど、うまれたての赤ちゃんというのはベビーベッドの中に入れられて、「あー」とか「うー」とかうなりながら、両手をめいっぱいふりまわして空中をつかもうとするものです。

「この子ったら、いったい何を欲しがっているんでしょう」

 お母さんは不思議な顔をしますが、それもしょうがありません。大人にはもう、空中を羽ばたく無数の天使が、ひとつも見えないんですからね。赤ちゃんはその天使をつかまえたくて、じたばたするのです。


 だいたい天使も天使で、いたずらでした。

 ときどき、風もないのに赤ちゃんの頭の産毛がぶわぁと巻き上がったり、靴下が片方だけ脱げてしまっていたりするでしょう。それだけでなく、お母さんのお化粧を真似したみたいに赤ちゃんのほっぺたをバラ色に染めたりもするのです。

 けれども本来、天使の仕事はなんであるか、あなたはまだ覚えていますか?

 そうです、天使は耳掃除をしてくれるのですね。赤ちゃんの耳なんて小さくて小さくて、とても人間の手にはおえません。それで天使たちが、小さな小さなほうきをもって耳の中へ入って行くのです。

  困ったことは、天使はとってもおしゃべり好きだということでした。掃除をしながら耳の中で一日中ぺちゃくちゃやり続けるのですからたまりません。

 けれども思い出してごらんなさい。楽しいお話もたくさんあったでしょう。


 あなたのいちばんのお気に入りは、踊る子馬のお話し。あんなに気取り屋の子馬は、そうはいませんものね。

「お、おど、おどる、おど、ど」

 なんてあなたが話し出すと、お父さんはもう両手をあげて大感激です。

「今、おとうさん、て言ったんだろう。すごいじゃないか。ほら、もう一度、言ってごらん。おとう、おとう、おっとっとっと」

 こっけいですね。子馬の気取った踊りかたについて議論したかったのに、大人はまるで的外れです。あのときのあなたは心底おどろいて、目をまん丸にしてお父さんのことを見上げたものでした。

 街にやってきた移動サーカスの馬が一頭、野原に逃げ込んだというニュースだって、いち速く天使が知らせてくれたのです。それであなたは、その馬が木陰に隠れているのを見つけたとき、みんなに知らせようとしてあんなに一生懸命に叫んだのでした。

「うまー! うまー!」

 けれどもやっぱり、大人というのはどこまで鈍いのでしょう。

「はい、あーん。お弁当、おいしい? うま、うま、うまうま」

 そんなのんきなことを言うんですから、あのときのお母さんはきっと、幸せな雰囲気に酔っぱらっていたのに違いありません。かわいそうに、あなたは両親が馬に踏みつけられやしないかと心配で心配で、すっかりかんしゃくを起こしてしまいました。

「うまうまうまうま、馬ーーー!」

 けれども大人が気付いたときには、馬はお母さんの帽子をぷぃと取りあげて、向こうへ行ってむしゃむしゃ食べてしまっていたのでした。帽子は麦わら製でしたから、馬にとってはごちそうだったのです。

「まぁ、馬だわ。あなた、この子きっと馬を恐竜と間違えて、おどろいちゃったのね、かわいそうに、おお、よしよし」

 まったく、赤ちゃんというのは誤解されっぱなしの大損です。

 こんなこともありました。遠い闇間に住む魔女が馬を盗んで食べたとたん、くるくると目をまわして泡を吹いて死んでしまったというのです。あの日あなたは一晩中、泣き続けました。馬のためだけでなく、心を改めずに死ななければならなかったみじめな魔女のために。そして、両親のために。

「おい、またメソメソしているよ。どうもうちの子は他の子より気が弱いらしい」

「学校へ行きたくないだなんて情けない。そんな子に育てた覚えはありませんよ」

「次は必ず一番になりなさい。他人を蹴落とさなければ社会では生きていけないよ」

「お婆ちゃんの葬式なんだ。ほら、お坊さんにお茶をお出ししなさい。やっぱり女が持っていったほうがうれしいんだから」

「お母さんは生まれ変わったら子供なんていらないなぁ。毎日ひとりで、マンガを読んでだらだらしていたいの」

「お兄ちゃんはいい子だけど。おまえは嫌いだよ」

「これは胸が大きくなる体操だよ。毎日かかさずやりなさい。大きいほうがいいんだから。大人になったとき、わかるんだから」

「おまえの馬鹿な頭で親に向かって何を言うか。とんでもない、とんでもない」

「父親が酒を飲んで子供を好き勝手して何が悪い。俺が子供の頃は何もしてなくてもいきなり殴られたもんだ」

「人生を楽しんでいる私達を娘は叱るんです。なんて意地悪な娘を持ってしまったんでしょう」

「いいえ、息子は何も言いません。立派です」


 きっと、あなたがこんなに大きくなった今でも、相変わらずお父さんもお母さんもとんちんかんなことばかり言っているでしょう。残念ですけど、親は子供のことが理解出来ないどころか、自分が何をしているのかさえわかっていないのです。

「あなた、私の麦わら帽子が見つからないの。どこへしまったのかしらねぇ」

「忘れたのかい。君の帽子はあの日、恐竜に食べられてしまったじゃないか」

 けれども悲しむ必要はありません。

 それはただの自然現象であって、あなたの人生を決めるものではないのです。風が吹いたり、雨が降るのとおんなじです。

 どうかあなたはこれからもさっぱりとした気分で過ごし、今までどおり、思いやりの心で両親を見守ってあげてください。


 ところで天使は、いつでも馬の話しばかりしています。その理由も、あなたが赤ちゃんだった頃、ちゃんと天使が教えてくれたはずですよ。またいつか、思い出すときがあるかもしれませんね。

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