雨の日の約束

雨矢れいや

雨の日の約束

 ぴと、と額に冷たいものが落ちてきた。反射的に空を見上げれば、追い打ちをかけるように頬も冷たくなる。

「……雨だ」

 ぼそりと呟けば、その言葉を待っていたかのように大粒の雨が降ってきた。分厚い雲から落ちてきた雨粒は、まるで筆から垂れた絵具のように地面を灰色にする。あっという間に世界は色を失った。今朝の天気予報は外れてしまった。

 

 いけないな、濡れてしまう。


 ぼくには傘がない。それはこの道の上にいる人たちもだいだいそうで、濡れたくない世間は自然と早回しになる。ぼくだって例外じゃない。辺りを見渡して見つけた小さな軒下に小走りで入れば、既に数人が先客として澱んだ空を見上げていた。

 彼らの邪魔になっちゃ悪い。空いているスペースに小さく身を寄せる。肩を軽く払うとあまり濡れていないことに気づいた。

 よかった。せっかく衣替えしたばかりだったのだから。

 しかしどうしようか。別に時間がないわけではないけれど。腕時計の針は暢気な時間を指している。空模様からしてしばらく止みそうにない。周りのスーツの人たちは高そうな革靴を小刻みに鳴らしながら携帯を触りだした。

 ぼくは、やることがない。

 ここでふと考える。何の気は無しに軒下に入ってしまったけれど、一体ここは何の軒下なんだ。

 後ろを向けばすぐにわかった。どうやら小さな喫茶店らしい。中はカウンターとテーブルが少し。客らしい人はいない。ドアにはオープンと書かれた札が下がっているから、営業中ではあるはずなんだけれど。


 ……。


 入ってみようかな。そう思ってしまえば、もう好奇心を止めることなんてできないだろう。かといってぼくしか気づいていなさそうなこの店の存在を、周りのサラリーマンたちにやすやすと教えるのはちょっと何というか、惜しい。

 結果的にぼくは、空気に身を同化させるかのように息を潜めて足を運び、最大限の注意を払って扉を開き、するりと店の中に身を滑り込ませた。



 店の中は蜂蜜を思わせる光で満ちていた。うわ、と思わず声が出てしまう。どうしよう、場違いだったかもしれない。密かに忍びやかに入り込んだその数歩先で立ち尽くしていたぼくに向かって、一つ声がかかる。


「いらっしゃい」


 その一声はぼくの固くこわばった体を一瞬で解きほぐした。詰まっていた息が一気に溢れ出す。2、3度大きく呼吸してから軽く会釈。お好きな席へと促されたから、ぼくは少し迷ってから奥の壁際の小さなテーブル席に座った。

 よくわからない、花と天使の絵が背後の壁にかかっている。絵は本当にわからないのだけれど、なんだかその下の席に妙に惹かれてしまったから。だからなんとなく、そこに座ってみた。

 水とメニューが差し出される。さっと見てみるに、一般的な喫茶店と同じような感じだった。

 さて何を頼もう。ぼくはコーヒーは飲めないし、かといって冷たいジュースやパフェの類を頼む気にもなれない。雨のせいでなんだか冷えていたし。そんなことを考えて目が何度か縦に往復したころ、ぼくは一番下に何気なく、しかし明確に書かれた文字に気がついた。


 『お任せしていただくと、その日の気分でお出しいたします』


 気になったら行動してしまうのが人の性。声をかけてこの文字を指すと、柔和な笑顔とともに心地よい言葉が返ってきた。

「かしこまりました」



 何かを待っているときはいろんな感情が交錯する。期待、焦燥、楽観、不安……。ぼくは比較的楽観主義者なつもりだけれど、初めて来たこの店はなんだか、このまま座っていたら微睡の中に埋もれて沈んでしまいそうだったから少し焦っていた。

 カウンターの奥を見る。何を作っているんだろう。気分、きぶん、キブン……そういえばこの店に入ったもの気分だった。今日は気分が物事を左右する日なんだろうか。

「どうぞ」

 かちゃり。目の前にカップを置かれた。白い。中には黒々とした……これは、珈琲?

 しまった、うかつだった。ぼくはコーヒー飲めないのに。どうしよう。でも頼んだのはぼくだし。お店に申し訳ないんじゃ……。

 ぐるぐると考えているぼくの目の前で、その真っ黒な液体は姿を変えていく。瓶の中から掬い出された飴色のスプーンいっぱいのとろみが銀の匙先と共に黒の中に消えた。くるくるとかき回せばただの真っ黒に艶というか、なんだか色っぽさが出た。

 ごくり、のどが鳴る。


「どうぞ」


 もう一度耳に届いたその言葉は、さっきの一言とは明らかに違っていた。

 去っていく足音の対角線上で、ぼくはカップに手を伸ばす。なぜだろう、コーヒーのはずなのに、ぼくは飲めないはずなのに、手が勝手にカップを口元へ運んでしまう。

 ひとくち。そのカップに口をつけた瞬間から、ぼくはもうその珈琲を味わうことしか考えられなくなっていた。



 雨はまだやまない。窓の外を見ながらお勘定をすます。

「ありがとうございました」

 どちらがこの言葉を言ったのか、自然と笑みがこぼれた。

 ドアを開ける直前、ぼくは振り返って言う。

「また、来ます。雨の日に」

 返ってきた表情に、ぼくは会釈をして店を出た。


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雨の日の約束 雨矢れいや @RainArr0w

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