小さな船が沈むとき

雨世界

1 ……どこにいるの? お兄ちゃん。

 小さな船が沈むとき


 本編


 ……どこにいるの? お兄ちゃん。


 木実と一葉の兄妹はとても仲の良い兄妹だった。

 兄の木実は年齢は十二歳で、妹の一葉は二歳年下の十歳だった。

 木実はとても静かな男の子で、いつも本を読んで毎日を過ごしていた。妹の一葉は活発な女の子で、いつも外を走り回って遊んでいるような女の子だった。

 その年の秋の連休のお休み、二人はお父さんの運転する車に乗って、山奥の街まで旅行に出かけた。それは山登りをするためだった。

 妹の一葉はずっと楽しそうにわくわくしていたのだけど、兄の木実はこの旅行にあんまり乗り気ではなかった。

 木実は運動が嫌いだったし、とくに山とか川とか綺麗な空気とか、そういう自然というものに、あんまり興味を持っていなかったからだ。

 木実はできればずっと自分の部屋で好きな本を読んで秋のお休みを過ごしていたかった。

 でも、楽しそうな妹の顔と、そして大好きなお父さんの嬉しそうな顔を見ていると、旅行には行きたくないとは二人には言えなかった。

 木実は高速道を走る車の後部座席に座って動物図鑑を読みながら、そんなことを考えていた。

「山登り、楽しみだね、お父さん!」

 助手席で楽しそうにはしゃいでいる一葉の声が聞こえてくる。

「うん。そうだね」

 運転席で車を運転しながら、お父さんが一葉に言う。

 それからお父さんはバックミラー越しに木実を見た。

「木実。一葉。喉乾いていない? それと、トイレとか大丈夫?」

 お父さんは二人にそう質問をした。

 すると一葉がミルクコーヒーを飲みたいと言ったので、次のパーキングエリアに寄ることになった。

 次に車に乗って出発するとき、木実は車の後部座席でうとうとと眠りについた。

 それから木実が次に目をさますと、車は真っ暗な夜の中でひっそりと眠りにつくようにして、止まっていた。

 木実はその場所がいったいどこなのか、まるでわからなかった。

 予定ではホテルにつくはずなのだけど、どう見てもここはホテルの駐車場には見えなかったし、それに車の運転席にお父さんの姿が見えなかったので、ここがどこなのか、お父さんに質問することもできなかった。

 助手席には一葉がいた。

 一葉はぴくりとも動かなかった。

 どうやら一葉は先ほどまでの木実と同じように、深い眠りについているようだった。

「一葉」

 木実は一葉の肩を掴んでゆらゆらと揺らした。

 でも、一葉は全然起きる気配を見せなかった。

 木実はそれから少しの間、お父さんが車に帰ってくるのを待っていたのだけど、お父さんはいつまでたっても二人の乗る車のところに帰ってこなかった。

 なので、木実は仕方なく、車のドアを開けて、真っ暗な闇の中に降りて行った。

 すると足元でくしゃと小さな音がした。それは木の葉が割れる音だった。木実が足元を確かめてみると、そこには木の葉と土があった。よく見てみると、周囲にはたくさんの木々があるようだった。どうやらここは、とても深い場所にある、森の中のようだった。

 今日の旅行の目的地からすると、もしかしたら山の奥にある場所なのかもしれない。

 木実は上を向くが、空はよく見えなかった。

 木々によって遮られているのか、あるいは曇っているのか、星は見えない。

 木実は車のドアを閉めると、車の周囲を迷子にならない範囲で歩いてお父さんを探してみた。でも、やっぱりお父さんはどこにもいなかった。

 木実は車の中に戻った。

 すると、そこには、先ほどまで助手席で眠っていたはずの妹の一葉の姿がなくなっていた。

「一葉?」

 木実の心臓はどくんと一度、不安で高鳴った。

「一葉」

 木実は車からもう一度外に出て、一葉の名前を小さな声で呼んだ。

 でも、一葉からの返事はなかった。

 木実は不安で不安で仕方がなかった。足も、ふるふると小さく震えていた。

 木実は迷った。

 このまま車で二人が帰ってくるのを待つのか? それとも二人を暗い森の中に探しに行くのか? どっちにするのか木実は迷っていた。

 そして、しばらくして、木実は決断をして、二人を探しに行くことにした。

 木実は車から離れて、暗い森の中に一人で歩き始めた。

 そして、世界からは、誰もいなくなった。


 その日、小さな船が一隻沈んだ。

 それは、毎日世界のどこかで起こっている出来事であり、個人としての経験としてはともかくとして、社会としては、それほど珍しい出来事ではなかった。

 永遠に続くように思える闇の中を木実は一人で歩き続けた。

「お父さん! 一葉!」

 木実は熊とか、狼とかが、怖かったけど、不安に負けて大きな声で二人の名前を呼んだ。でも、二人からの返事は帰ってこなかった。

 やがて木実は疲れてしまって、もう一歩も暗い森の中を歩くことができなくなった。

 なので、木実はその場所で、できるだけ小さく、丸くなって一人で眠りにつくことにした。

 疲れのせいで、優しい眠りはすぐに木実の元に訪れた。


「……お兄ちゃん。起きて」

 そんな聞き慣れた、とても懐かしい声が聞こえてきた。

 それは妹の一葉の声だった。

「……一葉?」

 ゆっくりと木実はその目を開いた。

 すると、そこには明るい光を背景にして、にっこりと笑って木実のことを見ている、最愛の妹である一葉の笑顔があった。

「おはよう、お兄ちゃん」

 一葉は言う。

「おはよう、一葉」

 木実は言う。

 木実は一葉と同じようににっこりと笑う。

 一葉は木実の手をぎゅっと、しっかりと握っていた。

 その一葉の手を、もう二度と、絶対に離さないと、このとき、木実は誓った。

 ……そして、優しい秋の風が吹いて、二人の姿は、その風の中にうっすらと消えていった。

 

 二人の消えた世界のあとには、暗い森の闇だけが、残った。


 小さな船が沈むとき 終わり

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