近年隆盛を極める百合とはなにか、気になっている方。
百合に関して新たな発見があるかもしれませんよ?
しかも常識が根底から揺さぶられる知的興奮も味わえちゃいます。
それぐらい容易には語り尽くせないほど含蓄に富んだ論考です。それと随所に散りばめられたユーモアも面白く楽しく拝見できます。素晴らしいです。
蛇足ですがこの論考から私が受けた示唆を書いておきます。
長々とした拙筆をご容赦ください。
なぜ男女で結婚しなければならないのでしょうか?
百合作品に触れたときに起こる、ピキピキと脳髄が逆撫でされたようなあの感じ。
それは百合が結婚という常識を疑問に付すことができているからです。
もちろん結婚以外にも、幸福な家庭とは? 恋愛とは? 常識とされた男女間の関係を軒並みに百合は否定しています。不快な快感でもって。
さらにそれは男女と同様な百合社会を目指すわけでもないのです。
どこまでも百合という妖怪はイデオロギーを外れていくのです。いかにして?
女の本来の姿を出現させることによってです。
女は、そもそも常識の軛から外されているわけなのです。
第四章から引用します。
真、全、美の精神的な世界は、女にとっては外部から課せられた自分とは異質の秩序の世界であるために、女は決してこの世界に完全に統合されることはない、というヴァイニンガーの説は、女は象徴的秩序に完全に統合されはしないというラカンの主張と同じところを指してはいないだろうか。
女は存在しない。ヴァイニンガーによれば、女は男の愛によって生まれます。それを作者さんはラカンの象徴界に完全に統合されていない女に繋げます。
象徴界――社会の基盤をなすコードの世界。
百合ひいては女はそこから外れるのです。
その逸脱は社会への鮮やかな抵抗に映るでしょう。
そして私はこの秀逸な論考を読んでいるうちに、常識的女性を外れた百合的女性に女のイデアを見たくなったのでした。
最後に慌てて読み返したジジェクのイデオロギーの崇高な対象と、作者の川崎めて仟さんのブログの論考の方も参照しつつ、私の頭によぎった所信を開陳いたします。
『百合は骨である』
百合は尊い・てぇてぇ・巨大感情と反応されるとき、崇高なものに触れているようです。
しかしこの<崇高なもの>とは、なんでしょうか。
カントはなにか超越的なもの――<崇高なるもの>が精神の外にあるとして物自体を想像しますが、ヘーゲルは精神の外には<何もない>がある。『精神は骨である』と言います。超越的ななにか――崇高なる対象が、その対象自身が抱える無能力によって物自体<イデア>を空無で満たします。<イデア>の何もなさを、さらに空無で満たすこと。これこそ、崇高なる力ではないでしょうか。
カントにとって<崇高なるもの>は無限に恐怖を掻きたてるものですが、ヘーゲルにとってのそれは、もはや<現実界>の小さなかけらでしかない。
この小さなちっぽけな惨めなかけらから、百合の花が咲くのだと私は信じたいです。