5章 我が道を照らす未来回路

神の享楽、書く事の革命性

 セミネール『アンコール』の表紙、そこにあるのはベルニーニの高名な「聖テレジアの法悦」の像である。ラカンは、ベギン修道会の女性神秘家ハデウェイヒの名を挙げ語る。例えば、めぐまれし聖ヨハネ、すべてではない側へいた神秘家。それに引き換え神の目を混同した男性神秘家アンゲルス・シレジウスはファルス的で倒錯的にすぎないと退け、こう続ける。「ハデウェイヒが問題になっているわけですが、それはちょうど聖テレジアがそうであるようにです――ローマに行ってベルニーニの彫刻を見るだけでいいんです。すぐにわかるでしょう、彼女が享楽していることを。それは疑いのないことです。でも、彼女は何を享楽しているのでしょう。明白なのは、神秘家たちの本質的な証言は、それはまさに彼女彼らが感じたことを言うことだったわけですが、しかし彼女彼らはそれについて何も知らないのです(佐々木中『夜戦と永遠』)


 ラカンが「追補享楽」のパラダイムに掲げるのは、カトリックの神秘体験(神秘主義)の系譜である。そこには、あたかもヴィトゲンシュタインの掟の対極をなすかのように、当の「語りえぬもの」について語るのをやめなかった主体たちの名が連なっている。そのうちのひとりが、ラカン自身も「知らない」享楽について彼になにごとかを教えたスペインの聖女、アラビラのテレサ。このカルメル会修道女は、自叙伝をはじめとする多くのテクストのなかで、自らの豊かな神秘体験を記述している。もっとも、テレサはなんの留保もなくそれらの体験を語るわけではなく、それが本質的に伝達不能であること、それが何であるかは実際に体験したことのある人にしか伝わらない事を、かえすがえす強調している。にもかかわらず、彼女の記述する、けっして均質であるどころか、むしろ多彩で変化に富み、いくつかの段階を踏みながら発展を遂げていくように見える神々との邂逅の体験は、たしかにファルス的なものに還元されない享楽が存在しているようだという印象を私たちに与えてくれる。


 たとえば、テレサにとっての「エクスタシー」とはなにか。彼女が「法悦(恍惚、Arrobamiento)」とも言いかえるそれは、なによりもまず「精神の高揚ないし飛翔」であり、「魂がそれ自身の外に丸ごと奪い去られること」である。だが、それだけではない。「Arrobamiento」とは同時に、「どう説明したらよいかわからないすばらしい解脱である。私に言えるのは、この法悦が、ひとり魂のみに向けられて、魂のうちであらゆる被造物からの解脱を惹き起こす諸々の恩寵といくつもの点で異なっているということだ。それはこれらの恩寵を凌駕するのである。ここでは、実際、主は肉体そのものが諸変化によってこの解脱を顕すことを望まれる」。テレサの神秘体験は、じつは、必ずしもつねにこのような身体の「脱自」を伴うとはかぎらない。テレサにとって、エクスタシーはどちらかといえば不完全な霊的体験にすぎない。にもかかわらず、それが私たちの注意を惹かずにおかないのは、テレサのことばがいかに――記述あれているとみなされることがらにたいして――無力であるにせよ、そのなかに少なくとも次のことが読み取られうるからだ。


 すなわち、テレサは、ファルス的「すべて」に決して還元されることのない享楽について(じっさい、私たちが既に1950年代のラカン理論から取り出すことのできた、女性の欲望を方向づける三つの軸のどれにも、テレサの「法悦」は重ねられない)、したがって、それが何であるのか、それどころか、それがどこから来たのすら知らない享楽について、語っているのだ、ということである。なるほど、テレサはそれが「神から」やってくることを疑いはしない。だが、その「神」とはもはや、ニーチェによってその死が告知されて久しいあの神、すなわち象徴界の父のことではなく、まさに、その顔が「女の享楽によって支えられている」ことをラカンが暴いてみせた神、すなわち、非存在としての<他者>にほかならない。


 注意しなければならないのは、「女の享楽」はけっして生物学的・解剖学的女性たちの占有物ではに、ということだ。ラカンのいう意味での「女」であることは、遺伝子や生理学的特徴によって保証される「事実」でも「所与」でもなく、ひとつの主体的「選択」である。女に生まれた主体が「女の享楽」を手にするのではなく、ファルスの論理とは異なる理論にしたがって享楽することを自らに求める主体こそが「女」なのである。それゆえ、ラカンにとっては、アビラのテレサと並んで、十字架のファンもまた「女」だということになる。テレサとは異なり、自らの神秘体験についてひたすら証言するのではなく、詩的言語そのものを「すべてではない」の論理へ高めるというスタイルを構築したこの男性の神秘家が、自らの享楽を「性別の表」の右側に書き込むことを、彼の解剖学的性は妨げなかっただろう。


 女性=大他者の享楽は、象徴界の外にあるものだった。言葉にならないはずのものだった。シニフィアンには関係がないもののはずだった。それは想像界と現実界が重なる場所、イメージには辛うじてなるが言語にするのは不可能な場所のはずだった。しかしラカン自身言っていたではないか!「恋文」と。「詩」と。「勇気」と。女性の享楽は、神とをし、神に抱かれ、それをめぐって書く享楽である。恋文を書く享楽、神の恋文に遭遇する享楽。神に抱かれ、神の文字が聖痕として自らの身体に書き込まれる享楽。そしてまたそれについて書く享楽。ラカン理論が破綻する一点、そしてラカンが「女に―なろうとする」一点だ。ジャック・ラカンの蛇行する論旨のなかで、すぐに消えていったかのようである老嬢ジャックリーヌ・ラカン。「彼女」は、しかし一瞬だけは現れた。だが、問題は残る。詩人の意味の場所と、女性の享楽の場所は別にある。象徴界の外にある。その助成たちが、これ以上無い言葉の使い手、詩人だったというのだ。ついに、言葉が、言葉の外へと染み出す、その瞬間に我々は立ち会っている。ジャック・ラカンの混乱の極と同時に、ジャックリーヌ・ラカンの出現と即座の失踪と同時に。彼女たちは自分を指して言うのだ。「迷い子」「流離い人」「幸福な難破」と。しかし、朗らかにすら彼女らはそれを言い放ってみせる。「わたしたち」を作り出す、詩の言葉。「われわれ」を創出する、叫び。祈り。傷。ここにおいて、性的関係は存在するのだ!

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