我が手に掴むは原初たる絶対の強き力、虚構世界に終止符を撃て!

 今日もう一度見直されてしかるべきレーニンの遺産、それは真実の政治学である。わたしたちは「ポストモダン」の時代に生きている。この時代ではレーニンのような真実への要求は、息を潜めている権力のメカニズムが表立って顕れたものだとして退けられる。復活した疑似ニーチェ主義者が好んで強調するように、真実など、力へのわたしたちの意志を主張するうえでこの上なく効果的な虚妄だというわけだ。なにかの意見を切り返す「そりゃ本当かい?」という問いの後釜に座るのは、「どんな権力の条件下でこの意見は発せられたのか?」という問いだ。わたしたちが普遍的な真実のかわりに手にするものは、夥しい数のものの見方だ。いや目下のところこう言い換えたほうがイケてるので、夥しい数の「物語」といっておこう。文学にとどまらず、政治、宗教、科学、これらはすべてそれぞれ異なる物語であり、わたしたちが自分について語るストーリーであるからして、倫理の究極的な目標となるのは、中立の空間を保証することとなる。つまり、上のような夥しい数の物語が平和裏に共存でき、誰もが少数民族から性的マイノリティに至るまで自分のストーリーを語る権利と可能性を有するような空間である。

Slavoj Ziezek. Of Apes and Men『Lenin’s Enlightenment. The Symptom. 2011.』


 誰も彼もが、本気で何も信じてはいない。カフェテリアでメニューを自由に選べるように、真実もまた人によって自由に選べるという訳だ。そこ考えられる『最悪のシナリオ』――に登場する様々な状況には、象徴的な次元がまったく欠けており、そこでわたしたちは、純粋に生き抜くためだけの機械に還元されてしまう。


 つまり、『最悪のシナリオ』がベストセラーになった理由は、セバスチャン・ユンガーの『パーフェクト・ストーム―史上最悪の暴風に消えた漁船の運命』という、1991年にカナダの海岸線東方の「世紀の嵐」に捕まった一隻の釣り船が生き延びるべく格闘する物語(と映画)がベストセラーになったのとまったく同じ理由だ。どちらも自然の脅威以外のものとは遭遇しないファンタジーが舞台設定であり、その舞台では社会的‐象徴的次元はカッコに入れられている。ある点では、『最悪のシナリオ』の秘されたユートピア的な舞台背景を用意しているとさえいえる。つまり、連帯意識によって結束した本物の間主観的共同体が立ち上がるのは、そのような極限状況をおいて他にないのだ。


 肝に銘じておこう。『パーフェクト・ストーム』は究極的には、とある小規模の労働者階級のあつまりが連帯することについての本なのだ! このようにして『最悪のシナリオ』のユーモア溢れる訴えは、わたしたちが自然からすっかり疎外されているということの証言として解することができる。自然の危険というファンタジーばかりに集中し「本当の生活」の危難危険との接点がないことが恰好の例証だ。


 百合が主張する「普遍的」原則は、我々の生活様式の色に染められてもいる。したがってなすべきことは、ここのあらゆる文化のなかに闘争を持ち込むことなのだ。特殊な生活様式のそれぞれはその内部に緊張や矛盾を抱え敵対しているので、前進するための唯一の方法は、異なった文化における個々の闘争を連携させることである。


 進歩的中産階級とノマド的プロレタリアートとの連携というプロジェクトのが具体的な問題に関して意味しているのは、グローバル資本主義に対抗する政治-経済上の闘争と女性の権利等々を求める闘争は、平等を求める一つの解放闘争の二つの現れとして捕らえなければならない、ということなのである。これが力の一元論である。


 レーニンの一元論は、「現在」を規定するもっとも主要な<力>を展開させることによって「未来」を描き出そうとする。このことによって、「現在」と「未来」は断絶を含んだ連続として現れる。あるいは、「未来」が「現在」のなかに侵入してくると言ってもよい。そして、このような「未来」の「現在」への侵入によってのみ、「プロレタリアートの団結不可能性」という問題が解決されうる。この問題は「資本性社会においてあるかぎり」解決不可能であった。したがって、プロレタリア階級が「普遍的な力」に達する真の結合を果たすためには、この限定が取り払わなければならなかった。


 してみればこのことは、革命においてプロレタリアートは現に資本制社会のなかにあるにもかかわらず、それと同時に資本制社会のなかにあってはならない、ということを必然的に意味することになろだろう。資本制社会の外部にあるとは、それがすでに止揚された後の世界にあるということにほかならない。つまり、革命を成就させる<力>の結合は、その<力>の担い手がすでに革命以後の世界(=未来)を先取りしていなければ、成立しないということである。ここで、カタストロフの哲学者、ジャン=ピエール・デュピュイに登場して貰おう。


 ジャン=ピエール・デュピュイは、(社会または環境の)激変という脅威にきちんと向きあうつもりなら、この時間の「歴史的」概念を打破して、新しい概念を導入する必要があると主張している。デュピュイはこれを「投企の時間」と呼ぶ。過去と未来の閉じた回路である時間だ。未来はわれわれの過去の行為から偶然に生みだされるが、その一方で、われわれの行為のありかたは、未来への期待とその期待への反応によって決まるのである。


 大惨事は運命として未来に組みこまれている。それは確かなことだ。だが同時に、偶発的な事故でもある。つまり、たとえ前未来においては必然に見えていても、起こるはずはなかった、ということだ。[……]たとえば、大災害のように突出した出来事がもし起これば、それは起こるはずがなかったのに起こったのだ。にもかかわらず、起こらないうちは、その出来事は不可避なことではない。したがって、出来事が現実になること――それが起こったという事実こそが、遡及的にその必然性を生みだしているのだ。

(ジャン=ピエール・デュピュイ『ツナミの小形而上学』P19)


 もしも――偶然に――ある出来事が起こると、そのことが不可避であったように見せる、それに先立つ出来事の連鎖が生みだされる。必然と偶然の弁証法的綜合は、全体の必然性が持つ従属的で部分的な刑期としての偶然性を保存ー止揚することに還元はできない。必然と偶然の弁証法の絶頂は、必然性そのものの偶然的な性格は認めるところにある。その初歩的なマトリックスは、物語化、つまり過去のできごとの偶然性が、均質な象徴構造の中に移し替えられる方法によってもたらされる。マルクス主義であれば、過去の全体は、変わらないテーマとして階級闘争をもち、筋書きとして社会的対立を解消する無階級社会を目指して努力するということをもつ。物事の根底にひそむ必然性が、様相の偶然の戯れによって現われる、というような陳腐なことではなく、これこそ偶然と必然のヘーゲル的弁証法なのである。この意味で、人間は運命に決定づけられていながらも、おのれの運命を自由に選べるのだ。


 分析家(一神教の神)は神経症患者(人)に対して、「進歩」を命ずるものとして現れるのか、それとも「退行」を促すものとして現れるのか、フロイトの方法の核心において現れるこの両義性とは対照的に、レーニンの語る革命家と労働者階級とのあいだの同様の関係は、一義的に明瞭に描かれている。


 レーニンは「『自然発生的要素』とは、本質上、意識性の萌芽形態に他ならない」と言っている。そして、社会民主主義者の任務は、この無意識的なもののなかにある意識的なものを高めるということにほかなら。しかし、この一方で、この意識の高まりとは「革命的な意識の高まり」であって、そのようなものは『なにをなすべきか?』で語られたように、労働者階級の即自的な意識の外部にしか存在しえないものである。つまるところ、それは労働者階級の自然発生的な意識にとって「無意識」の領域に属するものが高まるということである。


 無意識が意識であり、意識が無意識である。こう言うと、レーニンの議論は救いがたい混乱と錯綜に陥っているかのように一見思われる。しかし、経済的領域と政治的領域の峻別という視角から議論を整理すれば、混乱した外皮は取り除かれる。すなわち、自然発生的な意識とは経済闘争において自然に労働者階級において発生する意識であり、闘争が経済闘争にとどまるならば、革命を目的とする政治的領域に進入することはなく、革命政治から見ればそれは無意識的な闘争のままである。一方で、革命的意識は労働者階級には自然には意識されえない、つまり無意識的なものである。このままでは二つの意識、すなわち「経済闘争から発生する意識」と「革命的な意識性」は永遠に出会うことができない。


 しかし、レーニンにおいて事態はそうならない。すなわち、資本制社会における搾取・抑圧が生じる場所が、当然のことながら経済的領域においてである以上、葛藤は経済過程において現れる。そして、経済闘争はこの搾取・抑圧を緩和することしかできない。フェミニズムにおいても同様である。一方で、資本主義的な搾取・抑圧の本当の原因は、原理的に言えば「労働力の商品化」(マルクス)というトラウマ的な出来事にある。そしてマルクス主義とは、この出来事によって創始された世界を覆すための思想と実践にほかならない。だがしかし、この原初の視角が見失われ、労働運動が労働運動にとどまることをよしとするならば、搾取・抑圧の原因に遡行するための道は絶たれ、それらは永続される。


 してみれば、フロイト的に言えば、レーニンが為そうとしたことは、かつて搾取・抑圧の原因を作り出したがそのことが忘却され、無意識領域へと追いやられた「心的外傷」を、全面的な「暴露」「煽動」を通じて労働者階級に認識させるということにほかならなかった。そして、経済闘争が資本主義的経済闘争でしかありえない以上、この無意識を労働者が自覚するためのイデオロギーは、当然労働者の現存状態にとって外部から注入されるものとしてしか現れえない。同じく、労働者という範疇が経済的なものである以上、このイデオロギーは政治的なものでなければならない。これは、百合の主体においても同様である。


 レーニンを中傷する人が引き合いに出すのを好むのは、彼がベートーベンのアパショナータを聴いていたときの、かの有名なパラノイア的な反応であり(レーニンはまず泣き出し、それから、革命家にはそのような感傷に身を委ねる立場に立つことは許されていない、なぜなら感傷は革命家を軟弱にし、情けを捨てて戦うのではなく政敵を撫でたいと思うようにしてしまうからだ、と主張した。)それをレーニンの冷酷な自己統制と残忍さの証左とする。――だがこの偶発事は、その言葉の使われ方から言っても、最終的には〔冷酷な]レーニン像を逆なでにする論述となっているのではないか? むしろそれは、政治闘争を継続するためには堰き止めておく必要があるほどの音楽に対する行き過ぎた感受性を証言してはいまいか?


 今日のシニカルな政治家の誰が、今どきその手の感受性のほんのわずかあっても人前にさらすというのか? ここでのレーニンは、さまざまな政治的決断を下す際の行き過ぎた残忍さをその種の感受性となんの苦もなく併用した、ナチスの高級官僚の対極に位置しているのではなかろうか? (ホロコーストの発案者、ハイドリヒを思い出しておけば十分だろう。彼は一日の重労働を終えると、いつも忙中閑を見つけては仲間とベートーヴェンの弦楽四重奏を演奏していたのだから)――高級文化と政治的バーバリズムとがなんの問題もなく結びついてしまうという点にこそ存する、〔ナチスの〕至高のバーバリズムとは対照的ではないか? レーニンがそれに輪をかけて極端なまでに神経を尖らせていたものは、どちらにも還元されることのない芸術と権力闘争の敵対関係だったというのは、レーニンの人間性の証左ではないというのか?


 ペンが剣であったことがあるとするならば、1917年のレーニンにおいてだろう。我々は、百合を描くペンを剣に変える偉大なるイデオローグの出現を求めている!


 アンネ・フランクから、ソヴィエト連邦を信じたアメリカ共産党まで、そこに識別される理想化の身振りの至高の美を説明するものは、同じ否認ではないか。スターリンの共産主義がぞっとするものであったことはわかっているのに、それでもわれわれは、英雄的に共産党を信じ、ソ連を支持しつづけ、マッカーサーの魔女狩りの犠牲になった人々を讃える。


 ここに働く論理は、アンネ・フランクが日記の中で、第二次世界大戦中に人間がユダヤ人に対して行なった恐怖の行為があるにもかかわらず人間の究極の善を信じると言っているのと同じである。


 このような信念(人間が基本的に善であること、ソ連体制の真に人間的な性格)の肯定を崇高なものにしているのは、まさにそれとそれに反する圧倒的な事実に基づく証拠とのギャップ、すなわち、能動的に現実の事態を否認する意志なのだ。


 百合という崇高なる理念、偶然と必然が絡み合うヘーゲル弁証法こそが、我が手に掴む原初たる絶対の強き力。虚構世界に終止符を撃つ、我が道を照らす未来回路。

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