この甘い世界の嘘も本当もやっぱ頂戴 どれもあたしなんだ!
『クライング・ゲーム』をなぞるかのように、究極の愛を讃える百合作品として、鍵空とみやきが描く戦慄の純愛サイコホラー『ハッピーシュガーライフ』がある。
つい最近完結した漫画版について触れるのはここでは控えよう。素晴らしき感動的なエンディングを迎えたアニメ版の最終話から、究極の愛を見出していこう。
しおを軟禁していることが親友のしょうこにバレてしまったさとうは、しおと二人での生活を貫徹すべくしょうこを殺害する。それによってすれ違うさとうとしおだが、心を分かりあい共犯者として二人で生きる為、さとうの叔母から大量の現金を貰い、彼女達の城を発つ。さとうとしおが過ごした1208室、最後の夜。二人の指にはペアリングが嵌められていた。1208室にあるしょうこの死体を目撃し、殺害されてしまった事を知ったしおの兄あさひは、妹のしおを救出すべくさとうに立ちはだかる。逃げ場を失ったさとうは屋上に向かい、それを追うあさひ。戻るように説得するさとうに「私がさとちゃんを選んだの!さとちゃんが必要なの!」と退けるしお。さとうは足を怪我し、出口まで戻れない。叔母が彼女たちの逃走の為にガソリンを撒いて放火したが、あさひに食い止められた事で逃亡用の資金も燃えてしまう。二人は互いに感謝を告げた後、マンションの屋上から――「一緒に死のう、さとちゃん」飛び降りて心中を図る。さとうはそこで今まで知らなかった感情をしおから教えて貰ったことを悟る。温もりとはどういうものなのか、優しさとは、慈しみとは何なのか、そしてなによりも、愛というものが理解にはできなかった。だが、しおが彼女の手を取ってくれたから理解出来た。愛の意味を。さとうの走馬灯で映し出されたものは過去ではなく、しおと迎えられた幸福な未来だった。
そうしてさとうは――「しおちゃん、生まれ変わっても、私のこと好きでいてね」と微笑みかけて、しおを包み込んで守り死ぬ。さとうが庇ったことで、しおは一命をとりとめた。
入院しているしおをお見舞いに尋ねるあさひ、これからは家族一緒に暮らそうと――だが、しおには何も見えていなかった。さとうの目にはしおがさとうと重なって見えた。「生まれ変わった」しおは、自身の中にだけ幸せを求める。さとうが自分を守って生かしてくれた意味をずっとずっと永遠に考える事を誓って。彼女達はずっと一緒で、これが彼女達のハッピーシュガーライフなのだ。
少し辛口になるが、『ハッピーシュガーライフ』のプロットはお世辞にもよく練られているとは言い難い、が、にも関わらず、それを帳消しにして余りあるほど美しい最終回だった。古くから諺でも言うだろう、終わり良ければすべて良し!
この物語の肝は、さとうとしお二人が愛を断念しなかった結果、心中を選択する事を余儀なくされたという悲しい結末にある。『ハッピーシュガーライフ』では、さとうが不愉快な思いをするたびに「苦い」と、まさしく苦虫を噛み潰したような表情を浮かべながら吐き捨てる。死という苦い断絶、死、死、死、「死の欲動」。にも関わらず心中前の二人は恍惚としている。抱き合いながら重力に引かれる二人には粉砂糖のようなキラキラしたものが降り掛かっている。死にゆく彼女らの表情は甘い。
ここには抑え切れない衝動、享楽がある。ラカンの言葉を引用しよう。
快楽原則の彼岸、名付けることのできない<もの>の場、そこで生じていることが、われわれの判断を迫るいくつかの宗教的偉業で問題になっていることは間違いありません。例えば、フォリーニョのアンジェラは癌患者の足を洗ったばかりの水を喜んで飲み干したのですが、そのとき彼女の喉に癌患者の皮膚がひっかかってですね、まあそういうことです。これ以上は申しますまい。あるいは、福者マリー・アラコックは少なからざる霊的恵みに満たされて病人の糞便を食べました。
癌病者の汚水を飲み干す享楽、病人の糞を食べる聖なる慈善の享楽。美女との死を控えた性交のあとで一撃のもとに殺される享楽。神の祝福のもとに汚物を口に含んで味わい喉元へ溜め飲み下すこと、死をありありと目前に据えた上での最後の震える愛撫と肉欲の衝動の突き上げ。
ゆえに、二人の心中という苦い行為は、砂糖菓子のように甘美な結末を迎えるべく作用し――我々は幼くして共に死ななければならなかった彼女達の儚い生を悼んで涙する……。とはならないのがこの作品の滋味であり最終話を感動的に彩る点である。
さとうはしおを守り一人で死ぬ、そうしてしおはさとうに助けられた意味をずっとずっとずっと考え続けることを誓う。狂おしい愛情の奥底には、隠しきれない喜びがあった。兄であるあさひからすれば狂気にしか映らないとしても。EDの歌詞「やがて終わるのなら わたしのいのちをあげよう」――これはしおへの純粋な愛の為に、献身的に尽くすさとうのことを言っている。だが、愛がゆえにしおを守り、彼女だけでも生きていて欲しい、最愛の人間の幸せを願えば自分はどうだっていい。すばらしき利他的な愛、これがハッピーシュガーライフ――という陳腐なことではなく、さとうと同じ台詞をあさひに言うしおの瞳の狂気。そこに真実の愛がある。もう一歩踏み込もう。
心中するはずだった二人だが、さとうのみが死に、しおは生き残る。迸る怒濤の愛の奔流に飲み込まれ、甘美なる享楽への飛躍を試みたはずだのに、しおだけが生き残った。この物語がひとつの悲劇であるのは、この絶対的な死という断絶が容赦なく二人を生者と死者に分けててしまったが為ではない。
あの荒れ果てた空の面に、あの穏やかな水の板のガラスの面に、
どんな顔がやってきて、音の貝殻、
愛の夜が昼に接すると告げるのだろう、
閉ざした口に結ばれた開いた口のように
ポール・エリュアール『苦悩の都』
シニフィアンの鏡面的作用をよく現した詩である。二人が堕ちていく中で見た走馬灯の、穏やかで幸せになるはずだった未来について、それは幻想である。決定的に不在である根源的な対象をひとつの表象ならざる表象において描き出す鏡面とは、精神分析が「幻想」と呼ぶあのスクリーンでなくてなんだろうか。彼女達が繰り返した誓いの言葉は、果たせぬ約束として空虚に響く、幻想ではないのだろうか。
だが最後の瞬間に、さとうは気付いたのである。愛が何であるかを、それは神秘的な体験として経験され、衝動的に行為に出たのである。革命過程は、長期的な帰結を顧みない現在への完全なる没入には余地を残さないよく計画された戦略的行動などではない。まさに正反対である。予期未来への既望にもとづいたあらゆる戦略的考慮の停止。さとうという主体はしおというものに出会い。彼女が生き続ける事を願う。
残されたしおは考える――、死してなお欲望を断念しないその姿、これこそ真実の愛ではなくて何だろうか。狂気の中の愛、しおにとってさとうは、原初そのものだ。
ラカンは言う――「ひとり愛のみが、享楽が高みから降りて欲望に応じることを可能にするのである」。
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