宮廷ゲームからクライング・ゲームへ
病理に支配された偽りの――ではない、真なる愛について語るならば、予想外の大成功をおさめたニール・ジョーダン監督の『クライング・ゲーム』に学ぶのが良いだろう。これは宮廷恋愛の主題にもとづく究極的な変奏だ。
まずあらすじを振り返ってみよう。IRAの一員であるファーガスは、捕虜になった黒人の英国軍兵士の監視を命じられたが、二人の間には友情が芽生えていく。兵士はファーガスに、自分が処刑されたら、ロンドン郊外で美容師をしている恋人のディルに会いに行ってよろしく伝えてくれと頼む。兵士が死んだ後、ファーガスはIRAを脱走し、ロンドンに渡って煉瓦積み工の仕事をみつけ、兵士の恋人である美しい黒人の女に会いに行く。ファーガスはディルに恋をするが、ディルはどっちつかずの辛辣かつ高慢な態度をとり、ファーガスを近寄らせない。しかしついに、ディルは口説きに落ちる。二人でベッドに入る前に、ディルは少しの間ファーガスを待たせると、体が透けて見えるナイトガウンをはおって戻ってきた。ファーガスが、ディルの体を上から下へと熱い視線をはわせると、突然、ペニスが目に入った。ディルは女ではなく女装をした男だったのだ。ファーガスは吐き気がして、冷たくディルを押しのけた。動揺したディルは涙ながらに、最初から事情を知っているものだと思っていたのにと訴える(ディルに夢中だったため、主人公は――そればかりか観客も――明白に事実を語るディテールがそこかしこにあったことに気がつかなかった。例えば、二人がいつも会っていたBARは女装の男のための出会いの場だった)。
セックスに失敗するこのシーンの構造は、フロイトがフェティシズムの原初的なトラウマとして示したシーンの裏返しである。フロイトの事例は、子供が、裸の女の体を性器の方へと向かって見ていくと、何か(ペニス)があるべきところに何もないことを発見してショックを受ける、というものだ。『クライング・ゲーム』の場合は、何もないはずのところに何かがあることを発見して、ショックが引き起こされる。
この苦い事実が明らかになってから、二人の関係が逆転する。今度はディルがファーガスに夢中になる。その愛は不可能だと知っていてもだ。気まぐれで皮肉っぽく高慢な<貴婦人>から、恋に身を焦がしている繊細で傷つきやすい哀れな少年へと変身する。こうなって初めて真実の愛が出現する。まさにラカンの言う意味における、メタファーとしての愛である。愛される者が、その手を延ばして「愛を返す」ことにより、愛する者へと変わる崇高な瞬間がここにある。この瞬間は、愛の「奇跡」、「<現実界>からの答え」を表している。このことから、主体自身は「<現実界>からの答え」の状態いなるとラカンが主張しているときにその念頭にあるものが把握できるだろう。つまり、この逆転が起きるまで、愛される者は対象としての身分をもっている。つまり、愛される者は、自分では気がつかない「自分の中の自分以上のもの」である何かのために愛されている。
「他者に対する対象としての自分は何者なのか。他者がわたしに何をみてわたしを愛するようになるのか」といった問いに答えることはできない。そこである非対称が立ちはだかる。主体と対象という非対称だけではなく、愛する者が愛される者の中に見るものと、愛される者が知っている自分自身との姿とが一致しないという、より根源的な意味における非対称である。
ここで、愛される者の位置を定めている逃れがたい行き詰まりに気付く。他者がわたしの中に何かを見てそれを欲しているが、わたしはわたしがもっていないものを与えることはできないというものだ。または、ラカンの言葉を借りれば、愛される者がもつものと愛する者が欠いているものとの間には何の関係も存在しないとも言える。愛される者がこの行き詰まりを抜け出す方法は一つしかない。愛される者が、愛する者に向かって手をさしのべて、「愛を返す」のだ。つまり、象徴的な身振りでもって、愛される者の地位と愛する者の地位を交換する。この逆転が主体化の時点を指し示す。愛の対象は、愛の呼びかけに応えた瞬間、主体に変容する。こうした逆転が起こって初めて、真の愛が出現する。ただ単に他者の中のアガルマに魅了されているだけでは、真に愛しているとは言えない。愛の対象である他者が、実はもろくて失われたものであること、つまり「それ」をもっていない者であることを体験しても、愛がその喪失を乗り越えた時にこそ、真に愛していると言える。
ここで『クライング・ゲーム』に話を戻そう。ディルは今やファーガスのためなら何でもするといった様子で、ファーガスはディルの絶対的で無条件な愛に心が動かされどんどん惹きつけられていき、嫌悪を乗り越えてデォイルに優しくするようになる。ラスト近くになってIRAがテロ行為にファーガスを再び巻き込もうとしたときも、ファーガスはディルのために自分を犠牲にしてディルの殺人の罪を背負い込みさえする。映画のラストシーンは刑務所の面会室である。ディルがまたもや男をそそる挑発的な女の格好でファーガスに会いにやって来て、面会室にいる男たちの視線を一身に集める。ファーガスの刑期はあと四千日を超える――二人でいっしょに指折り数えるのだ――が、ディルはファーガスを待ってきちんと面会にも訪れると明るく誓う……。体のふれあいを許さない刑務所のガラスの仕切りという永遠の障害物は、対象を到達不可能にする宮廷恋愛における障害とまさに同じ役割をもつ。この障害があるからこそ、本質的に不可能な会いであっても――ファーガスは「ストレート」の異性愛者でディルは同性愛者であるために、二人の愛が成就することは決して無いという事実があっても――愛は絶対的で無条件なものになる。
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