愛、心の病
フロイト発見の確信は――主体の心の病はすべて「愛の病」である。誤解を恐れずに簡単に形式付けるなら、神経症者とは、いわば愛の挫折をいつまでも引きずっている人々であり、新たな愛の喪失を恐れるあまり、たとえ自らの欲望の満足を放棄しても、他者が自分を欲望し続けるよう策を凝らしたり(ヒステリー)、自らの欲望をあからさまに衝突する義務や志向で日常生活を埋め尽くすことで、愛する対象に到達するのは無限に先延ばししたり(強迫神経症す)する。一般に健常者とされている人間は、精神分析にとっては軽い神経症者だ。これに対して、愛の挫折を真に経験したことがなく(あるいは、それを避妊なしに受け止めたことがなく)、欲望のプログラミングによってその挫折の予感から身を守り続ける主体の構造が、フロイト的な意味での「倒錯」である。倒錯を特徴づけるのは、一言で言えば、欲望の条件に愛を従属させるというポジションだ。倒錯者は、一定の属性や付属物のものでしか(フェティッシュ)、あるいは、一定の嗜好を伴ってしか(サディズム/マゾヒズム、窃視症/露出症)、他者を愛することができない。ようするに、主体にはあらかじめ決められた短絡回路が必要なのだ。
それでは、精神病の場合はどうか。ラカンによって記述された構造的欠陥を補うように、や、むしろ、こうした欠陥のために生じる内面の空虚を埋め合わせるように、精神病者が特定の対象に文字通り絶対的な執着を抱くことがある。いうまでもなく、そのような愛の行くてに待ち受けるのは、往々にして破局的な結末でしかない。究極の理想を体現していた対象のふとした言動や過失を、主体が自分の愛への決定的な裏切りと感じ、その愛がたちまち底知れぬ憎悪に反転してしまう場合もあれば(ある種のメランコリー)、すべてを捧げて愛した対象にあっけなく見捨てられることで、空虚のなかに突き落とされた主体が、もはや抗う余地なく身を破滅させてしまうケースもある(ある種のスキゾフレニア)。
今日、このような一覧表には、自閉症や乖離性障害の主体における愛の困難を書き加える必要があるのかもしれない。だが、以上の、精神分析にとって古典的な三つの心的構造(神経症、倒錯、精神病)にマッチする「愛の病」のタイプを概観しただけでも、自分自身の愛のスタイルに照らして、これらのいずれにも見覚えがないと断言出来る人はどれだけいるのだろうか。私たちはむしろ、やはりこう問い直したい気持ちに駆られる――満ち足りた愛、それじたい幸福で、それにかかわるすべての主体を幸福にしてくれる愛など、はたしてこの地上に存在するのだろうか?
ラカンはこう述べたのだった――「愛について語ること、精神分析の言説においてなされるのはそれだけだ」(セミネール『アンコール』)。この断定は、今日でも決して色あせていない。
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