補論2 恋愛――うんここそあげなきゃ
恋愛
ハリウッドの黄金期に最も成功した映画プロデューサーのひとり、サミュエル・ゴールドウィンは、1924年、精神分析家ジークムント・フロイトに、恋愛映画のシナリオを一本書いて欲しいと依頼した。フロイトこそ「世界最高の恋愛の専門家」であるというのが、その理由だった。
残念ながら、フロイトはこの申し出をきっぱりと――ジャン=リュック・ゴダールが『軽蔑』のなかで引用しているゴールドウィン自身のことばどおり、「私抜きでやってくれ」と言わんばかりに――断った。フロイトは商業主義に迎合し、大衆娯楽の為に自身の学説を希釈し、メロドラマ化して伝達することに魅力を覚えなかったのだろう。だが、ゴールドウィンの考えは、決して的外れではない。フロイトが当時「世界最高の恋愛の専門家」のひとりであったことは疑う余地がない。精神分析とは愛についての言説である。
現状、商業上で流通している百合作品の内の9割ほどは、愛情について取り扱ったものになるだろう。憎悪関係を百合と評する人もいるはいるし、私自身、百合は執着的な憎悪自体、愛的なものを含んでいると睨んではいるが、一般的に、商業上の都合としてのジャンル的にも、百合と愛情――とりわけ恋愛は切っても切れない関係と言えるだろう。そこで、恋愛とはそもそも何か?という事について触れておかねばなるまい。
コミュニケーションについて定義するなら、している主体間の根本的・象徴的契約を自己再帰的に確認する為の行為、といって間違いはないだろう。会話とは、人間の発話に本来備わっている、言表された内容と言表行為との間の、還元不能な落差が目につく。あらゆる現実的な対象や行動も、宣言的次元を含んでおり、それが日常生活のイデオロギーを結成させる。
一般的な恋愛については、わざわざ私が語るまでもなく皆分かっていることだろう。フェティッシュや症候に規定された恋愛を、仔細に検討するのは今回はやめにしたい。ここで語るべきは、病としての愛と、崇高なる真の愛についてである。
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