オットー・ヴァイニンガーと男の情けなさ
オットー・ヴァイニンガー、聞き慣れない名前だと思うだろうか。彼はオーストリアのユダヤ系哲学者で、彼はフェミニストから性差別主義かつ反ユダヤ主義として避難されている。ウィトゲンシュタインは中学生時代に彼の著作を読んで強い感銘を受け、後に自ら最も大きな影響を受けた書物として、友人たちにも一読を薦めている。(しかし、ウィトゲンシュタインはヴァイニンガーの立ち位置に関して根本的に不同意であった。)
ヴァイニンガーは、両性間の違いと性的関係を哲学の中心課題にまで高めた。だが、その対価は悲惨なものだった。大作『性と性格』を発表して数カ月後、二十四歳にして自殺した。これは何故か。
彼は『性と性格』において、彼は全人類が男性的形質と女性的形質を併せ持っていると主張し、この自説を科学的に立証しよいうと試みた。彼によると、男性的形質とは能動的・生産的・意識的・倫理的・論理的な性質であり、女性的形質とはその反転、受動的・非生産的・無意識的・非論理的な性質である。彼によると、女性解放とは「レズビアン」のような「男性的女性」のためのものであり、女性の人生は行動(娼婦たれ!)と生産(聖母たれ!)の両面において、もっぱら性機能のために費やされる……。
ヴァイニンガーに関して感銘をうける点は、まず彼の書いていることが、紛れもなく本物だということだ。われわれが手にしているのは「客観的な」理論などではない。ヴァイニンガー自信が主題に徹底して身を投じている。ヴァイニンガーは、「公的な」言説では公然と口にするのをはばかられ沈黙のうちにしか思うかべられないものすべてを、「名指しで呼んだ」とも言える。つまり、ヴァイニンガーは、支配的なイデオロギーを支える「性差別主義者」の幻想を、白日の下に引きずり出したのだ。
自分自身の性生活という活動をもちたいという女の願いは、女の最も強い衝動である。しかし、これは女がその奥底にもつ唯一不可欠な関心、つまり、性的結合が生じるという関心の特殊な形にすぎない。あらゆる場合、場所、時においてできるだけ多くの性的結合を望む願いである。
( オットー・ヴァイニンガー『性と性格』P257-258)
したがって、彼にとって交接とは、女が普遍的倫理的な命令の女自身のための形、「あらゆる場面で相手を得るという無限の理想を達成することに寄与するように行動せよ」を、明確に述べることができる唯一のケースなのである。
性現象に――つまりは交接の観念に――完全に支配されている女とは対照的に、男は、女との関係において、官能と愛情という相容れない対極に引き裂かれる。
愛と欲望は異なる相容れない対立する状況であり、男が本当に人を愛しているときには、愛する対象との肉体的な交わりなどは考えることも耐えられない。[……]男が愛を感じていればいるほど、性現象に苦しむことは少なくなる。この逆も言える[……]愛と呼べるものは「プラトニックな」愛しかない。なぜならこの他の愛と呼ばれるものは、肉体的な感覚の領域に入るものだから(P239-240)
しかし、まさに女の本性としてその興味の及ぶ範囲が交接に限られるのであるならば、女の美しさはどこからくるのだろうか。いかにして、純粋で精神的な愛の対象として昨日することができるのだろうか。これに対して、ヴァイニンガーは過激な結論を引き出している。女の美しさは「遂行的」な性質である。つまり、男の愛が女の美しさを創造するというのである!
男が与える愛が、女の美しさや醜さを決める規準となる。美の条件は、論理や倫理とは事情が異なる。論理の場合は、思想の規範となる理論的な真実があり、倫理の場合にも何をすべきかを図る尺度となる理想的な善がある。[……]美においては、美しさは愛によって創り出される。[……]すべての美しさは、実際はむしろ投影であり、愛が必要とするものの流出である。だから、女の美しさは愛とは切り離せない。それは、愛が向けられる対象ではなく、男の愛そのものである。女の美しさと男の愛は、別々のものではなく、同じ一つのものなのだ。(P242)」
これから必然的に引き出される結論は、男の愛に対する愛――性的な欲望の対局にあるまさに「精神的な」「純粋な」愛――は、完全にナルシズム的な現象だというものである。男は、女を愛するとき、実は自分自身だけを、自分がもつ理想のイメージだけを愛しているのだ。男は、自らの情けない現実とこうした理想を永遠に隔てる割れ目があることをよくわかっているために、この理想を、自分ではなく、理想化した女に移し替えて投影する。これが、愛が「盲目」たる所以なのだ。自分が追い求める理想が、すでに他の人間、つまり愛する対象の中で実現されているという幻想の上に、愛は成り立っている。
愛するとき、男は自分自身しか愛していない。それも、経験上の自分、外に表れている弱さや卑俗さ、欠点や貧弱さを愛するのではなく、そうありたいと望むもの、そうあるべきと考えるものすべて、最も内奥にある最も正しい理解可能な本性、逃れられない束縛や世俗的なよがれから解放された自分を愛している。[……]男は、絶対的な価値のある存在という理想を自分の内にとどめておくことができずに、別の人間に投影する。ほかならぬこの行為が、まさに、愛と愛の意味なのである(P243-244)
なんてこった!したがって、愛は憎しみと同じく、男の現象であり安易な逃避なのだ。憎しみとは、自分の内に巣食う悪を、外的なものとして他人におしつけ、悪に直面することを避けることである。これに対して、愛とは、自分の精神的な本質を実現させる労を厭い、他人をすでにそうした本質を実現している者とみなして、その者に投影する。こうしたことから、愛とは、男自身との関係においてだけでなく、なによりも愛の対象との関係において、臆病で不誠実なものである。対象<女>の真実の性質をまったく無視して、真っ白な投影用のスクリーンとして利用するだけだからだ。
男が自らの性現象を受け入れて、自分の中の絶対的なものを否定し、より下位にあるものへと向かうときのみ、男は女に存在を与える。
男が性的になると、女が形成される。女がそもそもそこにあるのは、男が自らの性現象を受け入れたからなのだ。女は、こうした肯定の結果にすぎない。女は性現象そのものである。[……]したがって、女の一つの目的は、男を性的なままでいさせることだと断言できる。[……]女の目的は一つしかない。男に罪を犯させ続けることである。なぜなら、男が自らの性現象を克服したその瞬間に、女は消えてしまうからだ。
女は男の罪である。
[……]女を創造するという罪を冒し、さらに女の目的に同調するという罪を犯し続けているのは、愛情のためだとして男は女に言い訳をする。[……]女は男の性現象の表れや投影にすぎない。男はみな自分の女を創造し、その中に自分自身と自分の罪を体現する。しかし、女そのものには罪はない。女がこうあるように作られたのは、他人の罪のせいなのであり、女が責められるすべての原因は男の責任であるからだ。愛は罪を克服するのではなく、罪を隠そうとする。愛は女を無に帰すかわりに、女を高みに持ち上げる。(P298-300)
ここでは、 原因と結果のノーマルな関係が逆転している。女は男の<失墜>の原因ではなく、その結果生まれてくるものなのだ。「したがって女は存在しない(P302)」女の存在を消すには、男が自分の中の性現象を克服しさえすればよい。これで、なぜ男が愛の対象として女を選ぶかがはっきりとわかるだろう。自らの性現象を認めたことにより女を創造してしまったという耐え難い罪が、重く男にのしかかっているからだ。
女の存在そのものが、男が「自らの欲望に妥協した」こと、自律的な倫理的主体としての真実の性質を裏切り、性現象に身を委ねたという事実を証明している。その結果、性行為を際限なく渇望することが女の真実の性質となり、いかにファルスが「女の全生活をすべてにわたって――といってもほとんどの場合は意識されないが――支配している」ことを表している。こうして本質的にファルスに服従していることから、女は厳密なカント的な意味において他律的である。つまり、自由がなく、外部の<運命>に翻弄される。
……女の性現象に関するラカンの理論をよくご存知の読者は、この簡単な粗筋の中にラカンの基本的な一連の主張を簡単に見出すことであろう。女は男の罪を体現したものである――男が自分の精神的-倫理的な態度を裏切ったことの上に女の存在が成り立っている――という思想は、ラカンのテーマである「男の症候としての女」の変形ではないだろうか?(妥協の症候は、主体がいかに「自分の欲望を諦めている」のかを証明していることになる)。真、全、美の精神的な世界は、女にとっては外部から課せられた自分とは異質の秩序の世界であるために、女は決してこの世界に完全に統合されることはない、というヴァイニンガーの説は、女は象徴的秩序に完全に統合されはしないというラカンの主張と同じところを指してはいないだろうか。
だが残念なことに、詳細に検討するとすぐにぐらついていることが分かる。フェミニストらが考慮に入れてしかるべきヴァイニンガーの大きな長所は、「女の謎」というイデオロギーにもとづく問題の建て方から完全に切れているということである。
「女は存在しない」という主張は、論証的存在の領域の向こうにある、言葉では表せない女の<本質>を指しているのではない。まさにこの到達できない<向こう>こそが、存在しないのだ。幾分言い古されたヘーゲルの言い方を使って言い換えるなら、「女の謎」は結局のところ、隠すべきものは何もないという事実を隠している。ヴァイニンガーは、ヘーゲルの反省の逆転、つまりこの「ただただ何もない」ところにまさしく主体の概念を定義する否定性を認めることができなかったのだ。
ヴァイニンガーは今一歩踏み込めていない。女が男を誘惑することを「<何もない>が、<何か>を無限に渇望する」という存在論的解釈をするとき、ヴァイニンガーは女を対象として捉えている。<何もないもの>が<何か>になろうともがく中に、まさしく主体が実質的な支えを求めていることを認識できていないのだ。
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