闘争領域の拡大による同性愛の隠遁

 ここでは現代フランスの作家、『素粒子』や『服従』で知られるミシェル・ウェルベックの処女小説『闘争領域の拡大』を論じる。本書の中心テーマはこうだ「セクシュアリティの自由化による『闘争領域の拡大』」


 この作品は三部構成になっており、主人公の生活環境を描き出す1部、経済的に勝者である職業についている主人公と太ってちびで醜いヒキガエルのような同僚ティスランとの出張と、そこでの出来事を描き出す2部、主人公のその後を描く3部から構成されている。全体を丹念に検討していくことはしない。ここでは2部で語られる本作のテーマから、私の百合論のセクシュアリティ部分について補足していく。


 2部で主人公は疑問に思う「こうして僕は、数年来とり憑かれているテーマに、またしても自分が引き戻されるのを感じた。なぜ少年や少女はある一定の年齢になると、互いにナンパしたり、気を引こうとしたりに時間を費やすようになるのだろう?」


 事例ナンバー一。ある若者のグループを検討してみよう。彼らはパーティ、あるいはブルガリアでのバカンスを共にしている。彼らのあいだには、もとからのカップルが一組混じっている。借に少年をフランソワ、少女をフランソワーズとしよう。きっと具体的で、平凡で、観察しやすい事例になるだろう。


 若者たちには好きなように娯楽活動をさせる。ただし予め無造作に決めておいた一定時間に、かくしておいたハイスピードカメラで、彼らの体験を撮影する。ある程度、観測を続けると、フランソワーズとフランソワが全体の三十七パーセント近い時間、キスを交わし、ベタベタとふれあい、要するに互いに最大の愛情を相手に捧げていることが分かる。


 今度は煩わしい社会環境を亡くして、つまりフランソワーズとフランソワだけにして、同じ実験を繰り返してみる。愛撫の割合は十七パーセントに急低下する。


(ミシェル・ウェルベック『闘争領域の拡大』P109,110)


 主人公は一つの結論に至る『性的行動はひとつの社会階級システムである』カップルを二人だけにした時には、彼らはたった17%の時間しか身体接触を伴ういちゃつきに費やさないのに、彼らを他の人の集団と混ぜると37%の時間そうするという。それは性的行動が社会階級システムで――つまり、自分たちが勝者である事を見せびらかす為のマウンティングとして恋愛、セックスがあるということだ。


「ちくしょう、二十八にもなって僕はまだ童貞だ!」予想はしていたが、やはり驚いた。その時の彼の説明によれば、残ったプライドが邪魔をして、彼はいまだに娼婦を買ったことがないのだそうだ。僕はそのことで彼を叱った。少しきつい口調だったかもしれない。[……]空気はじっとりと冷たかった。彼は言った。「そりゃあね、僕だって考えたさ。その気になれば、毎週だって女は買えるだろう。土曜の夜なんてうってつけだ。そうすれば僕もようやくそれができるだろう。でも同じことをただでやれる男もいるんだぜ。しかもそっちには愛までついている。ぼくはそっちでがんばりたいよ。今は、もう少しがんばってみたいんだ」


 当然僕は何もしかし物思いに沈んだままホテルに帰った。やはり、と僕は思った。やはり僕らの社会においてセックスは、金銭とはまったく別の、もうひとつの差異化システムなのだ。そして金銭に劣らず、冷酷な差異化システムとして機能する。[……]セックスの自由化は「絶対的貧困化」という現象を生む。何割かの人間は毎日セックスする。何割かの人間は人生で五、六度セックスする。そして一度もセックスしない人間がいる。何割かの人間は何十人もの女性とセックスする。何割かの人間は誰ともセックスしない。これがいわゆる「市場の法則」である。解雇が禁止された経済システムにおいてなら、みんながまあなんとか自分の居場所を見つけられる。不貞が禁止されたセックスシステムにおいてなら、みんながまあなんとかベッドでのパートナーを見つけられる。完全に自由な経済システムになると、何割かの人間は大きな富を蓄積し、何割かの人間は変化に富んだ刺激的な性生活を送り、何割かの人間はマスターベーションと孤独だけの毎日を送る。経済の自由化とは、すなわち闘争領域が拡大することである。それはあらゆる世代、あらゆる社会階層へと拡大していく。同様に、セックスの自由化とは、すなわちその闘争領域が拡大することである。それはあらゆる世代、あらゆる社会階層へと拡大していく。ラファエル・ティスランは、経済面においては勝者の側に、セックス面においては敗者の側に属している。何割かの人間はその両方で勝利し、何割かの人間はその両方で敗北する。企業は何割かの大学卒業者を取り合う。女性は何割かの若い男性を取り合う。男性は何割かの若い女性を取り合う。混乱、動乱、著しい。


(ミシェル・ウェルベック『闘争領域の拡大』P125~127)


 女、セックスは自分が勝者であることを証明する為に必要とされる。その後、救いのない展開が待っている――主人公はティスランをクリスマス・イブの夜に連れ出し、あるBARで女を引っ掛けようとする。ティスランは醜いが、いつも必死に彼女を作ろうとしていた。今回も、いつものように失敗した。見向きもされない。最後、ティスランが目をつけた女性は、お似合いのイケメンとカップルになってダンスを始める。ティスランはそれを見て完膚なきまでの敗北を確信し、固まる。


 ティスランは僕の隣に腰を下ろした。手足が震えている。彼はカップルを見ている。心を奪われている。僕は一分近く待った。そういえば、この曲は、延々と続くのだった。それから僕は彼の肩を静かに揺すって、何度か彼の名を読んだ。


「ラファエル……」


「僕になにができる?」彼は言った。


(ミシェル・ウェルベック『闘争領域の拡大』P148)


 主人公はティスランにささやく。ティスランが女性の性的空想を呼び起こす対象となることは決してないし、もしなったとしてももう遅い。青年期の恋愛を経験し得なかったという傷は一生消えない。取り返しがつかない。救いはもうない。


 だが、復讐は出来る。その後、ティスランは男を殺そうとして――結局はできずに、酔った主人公を置いて、酒を飲んで、パリに帰ろうと車を運転して、事故で死ぬ。


 ティスランの死のニュースを聞きながら、僕は思った。少なくとも彼は、最後まで奮闘した。若者向けバカンスクラブ、ウィンタースポーツ系バカンス……。少なくとも彼は、諦めたり、降参したりしなかった。延々と失敗を重ねても、最後まで愛を探し求めた。僕は知っている。ひとけの無い高速道路で、二〇五GTIのシャーシに潰され、黒のスーツと金色のネクタイ姿で血まみれになりながら、彼の心中にはまだ闘争も、欲望も、闘争心も残っていた。


(ミシェル・ウェルベック『闘争領域の拡大』P155)


 ティスランは最後まで闘った。何度負けても、欲望も闘争も、残っていた。


 我が友人が、以前こんな事を言っていた「同性愛者には色々な苦労があるんだろうけど、容姿が悪いから恋愛できない人からすれば贅沢な悩みだって思う」


 相対的弱者の層においては、相手との関係が自分にとっても他人にとっても妥協として経験される。それは関係の構築を足止める、また関係が構築されたとしても、そこにはなにかしかの「嘘」が感じられ、それが「愛」へと発展していくことの妨げとなる。そして「愛」が不可能である限り…生はまったき苦しみの経験となる。同性愛者の次元にこの話を持ち込むならば、美醜の領域での闘争、あるいはレズビアンか、それとも(その気になれば異性愛の既得権益を得る事が可能な)バイセクシャルかで、愛を構築するための様相というのが異なってくるであろう。


 この救いようのない話が、一体百合と何の関係があるのか?とお思いだろう。そろそろ本題に入ろう。この話から――いやこの話を引くまでもなく、恋愛やセックスパートナーを得る事、そして結婚、これらは社会的階級に繋がるものだ。経済力、性的魅力、これらがなければパートナーは得られない。結婚は出来ない。半人前と見なされる。異性愛に関して、未だにロマンティック・ラブ・イデオロギーは根強く残る。そうして、現代ではよい結婚の為に男は性的な魅力と経済力を兼ね備えておらねばならず、格差が――闘争領域が拡大する中では以前より多くの男が負け犬として、結婚出来ない。これが、男性性の困難さである。


 だが逆に、同性愛に関してはそうではない。カミングアウトが勇気ある行動だとして、同性愛の権利擁護者から称賛を浴びるのは何故だろうか?それは、異性愛とは違い、恋人やセックスパートナーがいる事を公表することは社会的な不利へ繋がるからだ。よって、事例ナンバー一の逆の現象が起こる。周りに身体接触をひけらかさない――パートナーの存在を隠すことを選択するのが合理的判断として下される。


 歴史学者のデイヴィッド・ハルプリンは、クローゼットに留まることと比較して、<カミング・アウト>は、「また違った種類の危険と制約に自らをさらすこと」にすぎず、「自分で手軽なスクリーンになって、ストレートの人びとがいつだってゲイに対している幻想を引き受けること」を意味すると述べる。<カミングアウト>には、「自分の身振り、発言、表現、意見のすべてに、ホモセクシュアルのアイデンティティを認めた者、という、とてつもなく大きな社会的意味が加わってくる」のである。つまり、表明することによって、同性愛者についてのステレオタイプのイメージが自分自身に投影される危険性が待ちうけている、ということだ。当人の意識しないところで(『レズビアン・アイデンティティーズ』)


 レズビアンは、ゲイ男性と比較して、「格段に寛容」なまなざしを向けられていると認識されている。しかし、それは裏返せば、レズビアンの存在が、不可視な/みえにくい存在であることも意味する。「結婚するまでは半人前」という資本主義家父長制的イデオロギーの中で解釈され、一時的なものとして捉えられてしまう事すらある。言い換えれば、いずれは「異性愛」の「正常」な枠組みに参入するとみなされるのである。こういった偏見が「百合に混ざりたがる男」として現象する。それは、女という存在は、男と結婚しないと一人前とは認識されないということでもある。すなわち、男との結婚を経ないレズビアンは、一人前ではない、と解釈される結果となる。この場合、カミングアウトは、抵抗の手段として機能せず、「レズビアンである」という表明自体が、なかったことにされ――無化される――という現象が怒る。このような無化という現象――抹消――は、レズビアンを不可視化する回路を生み出すひとつである。


 百合がここで取る戦略はこうである。この女性の同性愛者の不可視性――カミングアウトの成功が困難ということを逆手に取るのだ。

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