女と男、性差
ラカンにとっては、性的な違いは、散漫で象徴的な構成物ではなく、象徴化が失敗したまさにその地点で出現するものなのである。象徴化が常にそのもの自身がもつ不可能さに阻まれるために、人は性をもつ存在となる。ここで問題なのは、「実際の」「具体的な」性をもつ存在が、「男」や「女」といった象徴的な構成に、ぴったりと適合することができないということではない。問題はむしろ、この象徴的な構成そのものが、ある根本的な行き詰まりを補完していることである。つまり性的な違いを象徴化することが可能であるならば、二つの性ではなく一つの性だけですんだはずなのだ。「男」や「女」は<全体>の中で互いを補う二つの部分ではなく、<全体>を象徴化する<失敗した>二つの試みなのだ。
つまり、対局にある二つの柱が<人>という全体を構成する関係とする考え方から一番遠い地点にある。「男性的である」ことと「女性的である」ことは、<人>という類がもつ二つの種ではなく、主体が<人>のアイデンティティを獲得しようとして失敗したことの二通りの現れであるのだ。「男」と「女」の二つがあって<全体>が形成されるのでない。なぜなら、この二つともがすでに<全体>になろうとして失敗したものだからだ。
最初に立ち戻ろう。別の享楽が、ある。ファルスの彼方にある享楽が。オウィディウスの筆になるティレイシアスの神話、呪いによって女性にも男性にもなったことがある彼が、女性の享楽のほうが上だったと語ったというあの神話に対する、粗野で下品な男共の下らない理解ではなく。『レトゥルディ』の中で、ラカンはこの神話に触れて言う。「ある女性(une femme)はすべてではないと言うことは、つまりこの神話がわれわれに示していることが、ある女性とは、唯一、性交からくる享楽を超越している者だということだ」と。ティレイシアスが「より以上」の享楽といったのは、ファルスを越えた「すべてではない」女性の享楽なのだ。
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