補論1 女、存在しないもの

すべてではない

 百合を論じる上で避けては通れないものがある。それは高潔なる関係性の担い手――女だ。百合という意味の場を構成する女という存在は、一体何なのだろうか?


 ラカンの定義を用いて言えば、女は存在しない。ならば、ラカン派精神分析家アレンカ・ジュパンチッチによれば、男とは自分を存在していると思い込んでいる女である。


 漫画家のよしながふみが、三浦しをんとの対談で興味深い発言をしている。


 男の人の抑圧ポイントは一つなんですよ。「一人前になりなさい、女の人を養って家族を養っていけるちゃんとした立派な男の人になりなさい」っていう。だから男の人たちってみんなで固まって共闘できるんです。男は一つになれるんだけど、女の人が一つになれないっていうのは、一人ひとりが辛い部分っていうのがバラバラで違うんでお互い共感できないところがあると思います。生物学的な差では絶対にない。これは差別されてる側はみな一緒ですよね。アメリカにおいて、全部合わせれば白人より多いはずのマイノリティが文化が違うから一緒になれないのと同じです。


(「ホモ漫、そして少女マンガを語りつくす!?」『小説Wings』二〇〇六年冬号)


 女は存在しない――すべての女は存在しない。決して、すべてではないのである。男は逆である、全ての男が存在してしまっている。象徴的な父、殺される運命にあるあの絶対的な父親が。一であり「例外」である原初たる父が。原父が享楽していたのは「すべての女性」だった。だから彼は神話の登場人物にすぎなかった。それがこの世界に出てくれば、すべての女性を享楽せんと奔走し、意気揚々と籠絡した女性を数え上げるあのドン・ファンの姿になるだろう。が、それは不可能な企てなのだ。女性はすべてではないし、すべての女性など存在しないのだから。だから彼の姿は少し哀れで、ちょっと滑稽なのだ。そう、ラカンもはっきりと述べているように、彼はどこまでも「数えられる」女性しか相手にしていない。トレ・ユネールを穿たれ、一と数えられるようになり、同一性という全体性で枠取られ、Laというシニフィアンを備え付けた女性しか。要するに、彼が相手にしているのはシニフィアンであり、それだけでしかない(佐々木中『夜戦と永遠』)しかし女は――ラカン派フェミニストのエリザベス・ライトの分かりやすい表現を借りるなら、「絶対的な女は存在しない」。


 父の権能によって去勢され、絶対的な例外者によって普遍的な宇宙に住まう男と、その宇宙に亀裂を入れる無限性の化身とも言える「すべてではない」女の対比、これがBLと百合の決定的な違いにつながっていく。

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