百合結婚!?とんでもない!!
よく出来たおねロリ作品、三日月のカルテ2巻の表紙は――結婚式の誓いのシーンをモチーフにしている。百合作品において、たびたび結婚というモチーフは用いられるのは周知の事実であろうし、カトリック式のよくある誓いの言葉のパラフレーズをうんざりするほど目と耳にする。なるほど、少なくとも日本ではまだ現実にはない女性同士の結婚をフィクションで描くことは魅力的である。この表紙は、とても良い。だが、百合の恋愛のゴールの最終形態として、安易に百合結婚を目指すのは……何かエピステーメーに囚われた行き詰まりを感じる。
そもそも現代の婚姻制度やそれに纏わる我々の態度は、資本主義イデオロギーの産物である。ゆえにそもそも異性愛においての結婚制度自体が悪いものなのだ。我々は常に偽りの対立を仕向けられ、肝心な事を隠蔽されている。第三の道が必要なのだ。
そこで、本章では社会学者アンソニー・ギデンズのセクシュアリティ論をベースに、百合においてのライフスタイル、抑圧、それを逆手にとった魅力を論じていこう。ギデンズの『親密性の変容』によれば、反省能力の高まりは、一方で性の知識の社会への浸透を促し、生殖から自立した「柔軟なセクシュアリティ」の可能性を切り開いていく。それは他方で、人間関係に「親密性の変容」を生じさせる。カップルの関係は、従来のロマンティック・ラブを理想とする異性愛関係から、「溶け合う愛」による純粋な付き合いへと変わっていく。純粋な付き合いはパートナー同士の対等な関係であり、その意味で民主的な関係である。そこには、民主的な関係の可能性を見落としたミシェル・フーコーへの批判がある……。
ギデンズのセクシュアリティ論には、反省能力を通じてジェンダー関係を民主化する戦略が読み取れる。詳細を検討していこう、社会の現実に目を向ければ、社会には「男性/女性」の二項対立の区別が厳然として存在し、昔に比べればマシになってはいるとはいえ、社会はそのようなジェンダーの区別ないしは差別を前提とする秩序によって構築されている。にも関わらずジェンダー関与的な社会秩序の中で立ち上がる社会理論は、その社会秩序に幻想のヴェールを被せ、ジェンダーについて中立的なものとなっている。もちろんこの「中立性」は虚構の見かけに過ぎず、ゆえにギデンズは理論を再ジェンダー化する作業を行った。ギデンズはジェンダー以外――セクシュアリティについて分析することを通じて、反省的に理論に内在するジェンダー性を捉え直すのである。
ギデンズによれば、ハイモダニティとは、「制度的反省能力」が社会的事象に徹底して働くようになると共に、社会的事象のグローバル化が進み、伝統の妥当性が揺らいでいる時代である。つまり、常に撹乱され批判され反省されたものが伝統を常に揺り動かし、再帰的に社会事象を創造し直していく……。ならば百合も社会構造に影響を与えられ、そして影響を再帰的に与えていくということである。
この前、アニメイトで百合好きには微笑ましい光景を目撃した。可愛らしい高校生の少女たちが、百合コーナーで漫画を物色しながら、「この絵がかわいくてとっても綺麗、話が凄く泣けるんだ」と楽しそうに語らい合っていた。昔はおたく文化といえば、日陰者の楽しみでしかなかったのだが、今では学校でも陽の側にいそうな少女達が、偏見もまったくなさそうな口ぶりで、昔は忌避されてきた同性愛について描かれた作品を当然のように楽しんでいる。私が期待するのは、彼女達が実際に同性愛者ではなくとも、百合作品によって提示されたより「解放的」な社会が、望ましいものだと彼女らに影響を与えてくれるのでは――ないかということだ。
ラカンの要点はまさしく、性的関係は不可能である、つまり性関係はない、というところにある。人と人とのあらゆる関係が(じかに性的な関係でなくても)性化されうるのは、まさに性関係がないからなのだ。セクシュアリティが他の領域に影響を及ぼすのは、それが圧倒的な力をもっているからではなく、その弱さゆえなのである。
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