3章 ジェンダー・セクシュアリティ・フェミニズム
同性愛、そして抑圧
2007年、米国上院議員ラリー・クレイグは、空港のトイレで、隣の個室にいる顔の見えない通りすがりの相手に対して性的な誘いをかけたとの容疑で逮捕され、罪を認めた。政治家としてのクレイグは、ゲイの権利拡大に反対を唱える保守派であり、当然、自身がゲイだとは認めていなかった。クレイグはスキャンダル発覚後、記者会見で「罪を認めたのは間違いで、容疑は誤解だ。自分は同性愛者ではない」と主張した。(ユリイカ特集*百合文化の現在 中里一『解放区としての百合』」
一般的には、同性愛者は権利拡大の上で何を望んでいるか?と問われれば、多くの人が真っ先にこれをイメージするだろう――「同性婚の権利獲得」。
このイメージは間違っていない。
おおよそ8割の人間が、結婚に相当する権利を望んでいる。2019年には立憲民主党ら野党3党が法律で同性婚をできるよう民法のいち部を改正する法案を衆議院に提出した。ポリコレアイランドであるカナダでは、既に同性愛の権利が保証されている。
さて、クレイグについて、穿った見方をすると、ゲイの議員が出世や利益の為に、反同性愛者的な方針で活動していた――そういった目を向けるのは容易い。だが、こうも思えないだろうか?プライベートではトイレで行きずりの男を誘惑しながら、職務上は保守的な面を使い分けるアンビバレンス――これもゲイ特有のライフスタイル、あるいは抑圧されているがゆえの処世術ではないのかと。
数十年前、ゲイといえば薄暗い地下世界にひっそりと生きている人々、寛大に扱われながらも無視されている存在というのが関の山だった(ただしかつてのゲイは、公共空間において周縁化され排除されることにいよって独特の剰余享楽を得ていた。それは、なかば禁じられた世界に生きるというスリル、支配的なルールを侵犯するスリル等々がもたらす享楽である。LGBTのコミュニティでは、公共空間において完全な正当性を得たいという欲望と、侵犯行為のもたらすスリルを楽しみたいという矛盾した欲望を同時に抱いている人々もいる)。
例えば自身の性的指向について悩んでいる女性が、自らの真の姿を知る為の冒険に出ず、物質的な利益の為に異性愛を選択する事は珍しくない。クレイグの一見支離滅裂な言動は、それと似たようなものではないだろうか?だが、本当にそうだろうか。
そしてここで私はこう問う。同性愛者も異性愛の規範も真似して、同性婚の為の権利拡大を目指すか――あるいはこのまま波風立たないように、クレイグのように矛盾した態度を取るか?
1920年代、「党の綱領からの右翼的な逸脱と左翼的な逸脱、どちらが悪いか?」と問われたスターリンのようにこう答えよう「どちらも悪い!!」
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