さようなら「蝶々さん」
そもそも、性的関係は不可能である。ラカンから直接引くなら――
性的関係は存在しない。欲望の宛先となっている存在は、シニフィアン的存在以外のなにものでもない。宮廷愛の対象の非人間的な正確は、じっさい一目瞭然である。この愛は[……]実在する存在、しかも名無しにされた存在に向けられているが、これらの存在は肉体的な実在性や歴史的な実在性を備えたものとしてそこに在ったわけではなく[……]、シニフィアンとして存在していたのである。
監督デビッド・クローネンバーグ、脚本および原作戯曲デヴィッド・ヘンリー・ホワァング『エム・バタフライ』、この映画の中で言外に発せられているメッセージを読み取ることで、性的関係は存在しないというテーゼを理解することが出来る。
この映画のあまりにも非現実的なストーリーに、まず強い衝撃を受ける。事実にもとづいたストーリーであるというコメント(クレジットにある)がなければ、誰しも単なる作り話だとしか思わないだろう。
文化大革命の最中、北京に駐在しているフランスの下級外交官が、外国人のためのレセプションの席でブッチーニのアリアを歌った中国人オペラ歌手に恋をする。外交官は歌手に誘いをかけ、二人の恋愛関係はその後長く続く。外交官にとって宿命の愛の対象である歌手(外交官はプッチーニのオペラにちなんで彼女に愛情こめて「わたしの蝶々さん」と呼んでいる)は妊娠したらしく、子供を産んだ。二人の関係が続くうちに、歌手は、中国の政府当局に二人の関係を容認させるにはこうするしかないと、外交官に中国のためのスパイ活動をさせる。外交官は仕事上の失策のためにパリに戻され、外交文書の配達人という下級のポストにつかされる。愛人の歌手はすぐに後を追ってきて、中国のためのスパイを続けるならば当局は「二人の」子供がパリに来ることを許してくれるだろうと告げる。その後ついに、スパイ活動がフランスの公安当局に発覚し二人が逮捕されると、愛人は女ではなく男だったことが明らかになる。外交官は、ヨーロッパ中心主義的な無知のために、中国では男性歌手がオペラの女性パートを歌うことを知らなかったのだ!
ここまでくると観客が話を信用できる限界を越えている。どうして外交官は、何年にもわたって愛情関係を続けておきながら、相手が男であることに気がつかなかったのだろうか。歌手は事あるごとに中国人の恥の観念を持ち出して、決して服を脱いだりはせず、歌手が男の膝に座っておとなしいセックス(外交官は気付かなかったがアナル・セックス)をしていた。つまり、主人公が東洋女性の恥じらいだと誤解していたものは、その「女」の立場からすれば、女ではないという事実を隠す為の巧妙なごまかしだったのだ。主人公を虜にする音楽の選択が、ここでは決定的な意味をもつ。『蝶々夫人』からの有名なアリア「ある晴れた日に」、これは、恥じらいや自分の感情を隠すなどといったこととは正反対にあるプッチーニの流儀――(女性の)主体が、キッチュすれすれまでに、あまりにあらわに内面をむき出しにする――を最もよく表した歌である。主体は哀れっぽく、自分がどんな女なのか、何が望みなのかを告白し、心の奥底にあるはかない夢を曝け出す。この告白はもちろん、その極みにおいて死へ欲望に達する。
これらのことを考えあわせると、主人公の犯した悲劇的な過ちは、自分の幻想にあるイメージを、それにはそぐわない対象に投影させたことにあると見えるかもしれない。つまり、生身の人間を、蝶々夫人のような東洋女性という愛の対象としての幻想のイメージと取り違えたことによるというわけだ。しかし、事態はそれほど単純ではない。
映画の鍵を握るシーンは裁判の後にくる。主人公と、今では普通の男の服を着た中国人の愛人が、刑務所に護送される警察の車の中の仕切りの中で二人きりになる。中国人は服を脱ぎ、「ほら、あんたの蝶々さんだよ!」と。中国人の愛人は、神秘的な東洋女性という主人公のもつ幻想の枠の外にある本当の自分を見せたのだ。この決定的な場面を前にして、主人公は後ずさりする。愛人の視線を避けて、その申し出を拒否するのだ。ここで、主人公は自分の欲望を諦めた結果、消すことのできない罪の烙印を押されることになる。対象を包む幻の層の下にある本当の核に向けるべき真実の愛を、裏切るのだ。愛人は中国政府の為に主人公を操っていたが、主人公は何の下心もなく愛人を愛していた。それにも関わらず、中国人の愛の方がある意味では純粋でより真実の愛であったことが明らかになる。ここに逆説が存在する。もしくは、ジョン・ル・カレが『パーフェクト・スパイ』で語ったように、「この上まだ裏切ることのできるものが愛である」。
『エム・バタフライ』が究極的に提示しているのは、女との真の関係ではなく、女に対する男の悲劇的な数々の混乱した幻想ではないだろうか。映画の展開に関わるのはすべて男である。プロットがグロテスクで信じがたいところは、この話が実は女装の男へのホモセクシュアルな愛がテーマなのだということを、覆い隠しつつも指し示す働きをしているのではないか。映画はあくまで不正直で、この明白な事実を認めたがらない。しかし、こうやって「解説」しても、『エム・バタフライ』の真の謎に迫ることはできない。その真の謎とは、なぜ、主人公と女の格好をした男である相手との間の希望のない愛の方が、女との「普通」の関係にあるときよりも、異性愛の概念を「本当に」現実化することができるのかということである。つまりこうだ――男は常に女を捉え損なう。「蝶々さん」という理想的な東洋女性に対して、このうえなくあけすけな愛情表現がされるのは、中国人の愛人がひとつの象徴的機能へと変形されているからだ。ゆえに、性的関係は存在しないのだ。自我はエスに対しても自らを愛の対象として押し付け、こう言うのである「どう、私を愛してもいいのよ、私、対象にそっくりでしょう!」(岩波『フロイト全集18』)。
言わずもがなの注意書きを差し挟んでおけば、ラカンの語る「性的関係」とはけっして俗に言う「肉体関係」のことではない(じっさい「肉体関係」ほどありふれた関係が他にあるだろうか)。例え一対の主体が「肉体関係」を結んだとしても、それぞれが相手の身体の中にある享楽へといかにしてもアクセスできないという意味において、いいかえれば、私の身体の享楽と相手の身体のそれとがいかにしても融合しえないという意味において、「性的関係はない」のである。ゆえに我らは同性愛を求める必要があるのだ。崇高な<もの>への接近を、女性の、いやこう言い換えよう。<大他者の享楽>を求めて。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます