クンデラ、俗悪な世界から二人で

 <症候>モードで作用する百合を詳しく分析するには、ミラン・クンデラの小説から学ぶのが手っ取り早いだろう。まず一見すると、彼の作品の宇宙を構造づける根本的な軸は、公式の社会主義イデオロギーの見せかけのパトスと、ささやかな慶びや楽しみ、笑いと涙のある、イデオロギーの手の及ばない日常の私生活という島々との、対立であるように思われる。これらの島々のおかげで我々は、イデオロギーによる儀礼がすべて虚しく見え、馬鹿げた俗悪でグロテスクな無意味に見えるようにしてくれる距離を取る事ができる。自由や民主主義についての悲壮な演説をもって<大文字の他者>に反抗するというようなことをわざわざする必要はない。遅かれ早かれ、そのような犯行は、また別のイデオロギー的脅迫の「大行進」に行き着く……。


 更に一歩進めて、イデオロギーだけから逃げる方法はないということを考慮しなければならない。冷笑的態度への密かな沈溺、私的な楽しみへの固執等々――これがすべてまさに全体主義的イデオロギーの「非イデオロギー的」日常生活における動作のしかた。クンデラの小説の教訓は、無邪気な私的領域への素朴な依拠とは正反対である。全体主義的社会主義のイデオロギーが、内側から、まさに我々が逃げ込む私生活の圏域を汚しているのだ。


 しかしこの洞察は結論ではない。クンデラの教訓は更に両義的である。もう一歩が必要だ。私的圏域のじめじめしたところにも関わらず、全体主義的状況が、東側における日常生活の様々な目線によって証言される一連の現象をもたらすという事実は残る。全体主義的イデオロギーの支配への反応として、私的楽しみという「良き生活」への冷笑的な逃避だけではなく、閉じた社会で、真の友情をもち、お互いを訪ね、夕食をともにし、熱の入った知的会話を交わすといったことが異常に盛んになっている。問題はもちろん、両面の明確な境界がないところである。同じコインの表裏であり、だからこそ、民主主義の到来と共に、それらは両方とも失われるのである。これこそがクンデラから得られる偉大な教訓である。

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