身体性=女性性へのフェティッシュ イブのおくすり

 FLOWERCHILDのエロティックなおねロリ作品『イブのおくすり』からは、卓越した画から描かれる女性性=身体性へのフェティッシュが見受けられる。まだ幼い少女と、成熟した大人の女性、それぞれの肉体が絡み合う甘美なコケットリーが、汁気纏った肉感のある筆致で描かれている。FLOWERCHILD作品の特徴として、女体への徹底したフェティッシュがある。それでいて決して下品でなく、百合というジャンルの流儀に沿っている。百合作家の中でもトップクラスにえっちな漫画を書くまんが家だ。


 ググれば1話が試し読み出来るので、是非一読して欲しい。

 幼い少女、大人の女性、その2つの身体性の甘美さを同時に味わえるのがおねロリなのだ。そして、思春期の精神性と、大人――とは言え、20代のまだ葛藤多き年代の関係性がエロティックに描かれている。女性性とは、身体性である事をよく熟知しており、少女の肉体、大人の女性の肉体のデュオニソス的な邂逅は、偉大なる、聖なる人間の発見であることは間違いないだろう。ド=ブロスその人に感化された若きマルクスの思想的炎のほとばしりと、共通点を見出すことが出来る。FLOWERCHILDのフェティッシュはマルクス-ラカン的フェティッシュよりも、ド=ブロス的フェティッシュに近い。


 ここにあるのは原始的なフェティシズムだ。フェティッシュとその崇拝者とは相互依存的である。その点を捉えたデュルケームはこう述べる「依存は相互的である。神々もまた人を要する。供物や供犠がなくては、神は死んでしまうであろう」(『宗教生活の原初形態』)


 女性性=身体性について、詳しく述べるのは後にするが、男性にとっての肉体というのは、まるで空気のように透明なものなのだ。男性が自分も身体を持っていることを思い出すのは、激しい疲労や痛みといった「問題」が生じた場合のみ、と言えるほどに。一部の男性が好む「汗をかく快感」といったものは、肉体を酷似することで自らの身体性を確認したいとう欲望の表現なのかもしれない。彼らはファルスをもってはいるが、それは身体器官というよりも、男性的本質を凝縮した、文字通りシンボルとしての器官でしかない。女性の身体性とは、ある意味で過剰なものであり、ゆえに時として女性同士一体化してしまう程に暴走する。例えばオフィスで女性の身なりについて細かく見るのは、往々にして同じ女性であることを考えてみれば分かりやすいだろう(斎藤環『母は娘の人生を支配する』より)。その享楽が肉感的に描かれたのが『イブのおくすり』だ。

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