1章 百合のイデオロギー

百合のイデオロギー

 時間の流れと共に時代精神も移り変わっていく。シニフィアンに指し示されるシニフィエも時代精神と共に流転する。それゆえ百合を歯切れの良いセンテンスで定義するのは難しい。ジャンル・流儀・文化、コンテクストを読まねばならない。


 1960年代、ジャック・ラカンは自派の短命に終わった不定期刊行物を『Scilicet』と名付けた。そこに込められたメッセージは、今日広く認められた意味(「言い換えれば」「すなわち」「つまり」)ではなく、文字どおりに「知ることを許されている」という意味だ。いま、我々が込めるべき意味も同じである。百合を知ることを、百合に徹することを許されている。黎明期はすっかり過ぎ去り、今やこの時代を象徴するような精神として百合は表象している。百合について、最大限の忠誠を尽くしながら行動することを許されている。


 ゆえに肝心なのは偉大なる百合作品に流れるイデオロギーを分析していくことだ。私の独断と偏見で幾つかの百合作品を取り上げ、現在の百合に斯様なイデオロギーがあるかを紹介しよう!


イデオロギーのふたつのモード

 百合作品を構成するイデオロギーは二つの形態で機能する。イデオロギーは目に見えず触れる事すら出来ないが、人は必ずイデオロギーに規定される。


<フェティシズム>モード

 ・同性愛に無葛藤

 ・女性、それ自体への愛着

 ・絶対精神の果て

<症候>モード

 ・同性愛に葛藤

 ・理性の狡知が働く磁場

 ・象徴的秩序に強く規定される


 <症候>モードでは、現実らしく感じさせるイデオロギーの嘘が、構造の裂け目=症候に脅かされるのに対し、フェティッシュは実質、ある種の症候の裏返しとなっている。言い換えれば、症候とは上辺を取り繕った偽の見せかけをかき乱す例外であり、抑圧された別の場面が吹き出す点である。これに対して<フェティシズム>とは、我々に耐え難い真実を耐えさせる嘘の具現化である。当然、両者の線引があやふやになることもある。対象が症候として機能したりフェティッシュとして機能したりもする。例えば衣類などの死者の遺物は、フェティッシュとしても(不思議なことに、その人がそこに生き続ける)、症候としても(彼女の死を脳裏に蘇らせる不快な細部)機能しうる。


 分かりやすく言えば、<フェティシズム>モードの作品は一般的にきらら系と呼ばれている、美少女が多く出てくる作品に多い、このイデオロギーが増大し始めたのは美水かがみ『らき☆すた』からだろうか。傾向としては無葛藤理論が実現した楽園のような優しい世界。あるいは女性性=身体性への呪物崇拝。


 それとは逆に<症候>モードは象徴的秩序に支配されている。キャラクターの言動、そして内面は外部の構造やジェンダー、そして危うげな大きな物語に常に脅かされている――だが、それが作品そのもののテーマや魅力に繋がる。例えば、ミラン・クンデラの小説、社会主義イデオロギーと私生活圏のコントラストのように。


 ここではイデオロギーの二つのモードについて、いくつかの百合作品――<フェティシズム>モードは なもり『ゆるゆり』、FLOWERCHILD『イブのおくすり』、まにお『きたない君がいちばんかわいい』から、<症候>モードは、コダマナオコ『コキュートス』、タカハシマコ『タイガーリリー』、仲谷鳰『やがて君になる』。二つのモードの狭間としてアニメ『フリップフラッパーズ』、二つのモードの彼岸として、あおと響『ナチュリーズ』を取り上げて解説していく。イデオロギーについての補足として、百合作品外から映画『The World's End』とクンデラの小説から教訓を学ぶ。


 

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