大正11年 弘前高校生徒184名 長勝寺占拠事件
かんから
弘高生 長勝寺占拠事件
1.きっかけ 10/1(日) ー秋の大運動会ー
大正十一年(1922)、10/1(日)。官立弘前高校……現在の弘前大学の前身にあたる教育機関で運動会が執り行われました。四つのまとまりに別れ、様々な競技で優劣を競い合っておりました。
が、5千メートル走で不正が発覚。理乙生徒が本当は勝っていたはずなのに、文乙生徒が勝ったことにされてしまったのです。抗議のために審判に詰め寄る理乙の生徒たち。そしてその後を追う、勝敗を覆されたくない文乙の生徒たち……。
ここで喧嘩の勃発です!
叩きあい、殴り合い、めちゃくちゃな騒ぎへと発展!そして最後にあろうことか……
競技用の長槍を手に取った馬鹿野郎が一人。
そして勢いよく、喧嘩の渦に投げ入れやがったのです!
そして一人の理乙生徒の太ももに突き刺さり、流血の瀕死状態に陥りました。
2.先生たちの対応は……?
長槍を投げた犯人である水野君には停学1ヶ月の処分が下されました。
ただし何とか瀕死の状態から脱したものの、歩行が困難となった北川君のことを考えると……処分が甘すぎる!退学が相応しいと考えた生徒たちは仲間を募り、高校側に抗議しました。ただし一向に判断を覆す様子はなく、逆に文句を言ってきた生徒らに圧をかけるなど、正しいとはいいがたい行為に生徒らは逆上しました。
3.そして生徒らは……授業のボイコットを始める。
最初は被害にあった北川君の所属する理乙の生徒たちから始まり、続いて同じ理科である理甲の生徒らにも。さらには水野君に嫌気をさしていた文科生徒らも文京町の学舎に登校しませんでした。
それでもなお、高校側は判断を覆そうとする気配がありません。
4.10/12(木) 第一次長勝寺占拠事件
そこで弘前高校の生徒らは考えました。大人数で一か所に集まり、弘前市民や新聞社などに高校側の悪行を訴えようと。
当時生徒らは寄宿舎として弘前市内にある8ヶ所の寺に住んでいました。ですのでどこかの寺に集まろうと考えるのは自然な事でした。最初は貞昌寺に集まったらしいのですが(*福寿院との記述もあり)、人数が多くなりすぎて手狭に。途中から広めの敷地を持つ長勝寺へと移動しました。青木君と林君を中心に、その時すでに100名を超えていたらしいです。
5.様々な非難や圧がかかり……
高校に反旗を翻した生徒らの心意気を称賛した弘前市民は、彼らの元に必要な物資を届けました。さらには民権派の弁護士が力添えを申し出たり、高校内の反主流派である先生らも合流してきました。
これに高校側も手をこまねいて見ているわけには参りません。先生らを寺に派遣して、授業ボイコットを止めるように説得しましたが、生徒らは聞き入れませんでした。そこで生徒側についた先生らに ”クビにするぞ” と圧を加えたり、生徒らの親元に”騒動を今すぐ止めさせるように”と連絡を入れました。
そして最後には”とある生徒らが学校の金を勝手に流用した”とのグレーな情報を流し、生徒の間を疑心暗鬼にさせ、弘前市民の印象も悪いモノへと変えさせました。
こうして生徒らの勢いは削がれ、散り散りばらばらになってしまいます。
6.しかし、高校側の処分は厳しすぎた。
しばらくたった後、10/26(木)。徒党を組んで長勝寺を占拠した罪により、何百人もの生徒に処分が下りました。
放校(=退学)3名
無期停学126名
他の参加者は戒飭(=注意喚起)
なぜこのような結論に至ったかというと、実は高校側で参加生徒たちに対して反省文の提出を求めていました。しかしほとんどの生徒がその求めに逆らい、無視をし続けました。徒党を組むことこそ止めたものの、事の発端となった水野君への処分がなんら変わっていなかったからです。
高校側はこの生徒たちの態度に憤慨したため、以上のような処分になりました。
すると生徒たちは
”なぜ水野よりも重い罰を受けなければならないのか”
となるわけです。
7.10/26(木) 第二次長勝寺占拠事件
実は退学になった三名の内一人は前回のボイコットに参加していませんでした。
なのに主犯格とみなされた吉田君。青木君と林君は当然ですが、彼が一つのきっかけになったのは言うまでもありません。(それでも裏で密接につながっていたという設定で、自著の弘前市のありえない話を書きましたが。)
再び生徒たちは長勝寺に集まり、最大184名を記録しました。父兄らも彼らの意図する所を理解し、次々と応援に駆け付けます。親の許しを得た生徒らは勢いづき、堂々と高校に反旗を翻します。
これに高校側も追い詰められ、生徒側についていた先生らをクビにしてしまいました。この一連の騒動は全国紙にも取り上げられ、さらには国会では弘前高校廃校論が真剣に議論され始めました。
8.11/2(木) そして最後には……
高校は徒党を組んだ生徒たちの処分を取り消すと発表しました。退学になるはずだった三名の生徒の処分こそ取り消さないものの、他の高校へ入学しなおす権利を与えました。
なぜこのように大幅譲歩したかというと、高校自体が無くなってしまえば、自分たちが職を失うことになるからです。さらにはこの騒動の鎮圧のため、当時弘前城に詰めていた第八師団の投入も検討されており、教える側としての良心も咎めました。
こうしてこの一連の騒動は終結したのです。
完
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