44話 天然ギャルと反省した。

 翌朝。午前六時。

 カーテンの隙間から差し込む暑い朝陽で目を覚ますと、僕はあくびを噛み殺しつつ、ソファから起き上がった。

 正直まだ眠い。昨夜の『アレ』で悶々としたせいで寝つきが悪かったのだ。

 けれど、このまま二度寝する気にもなれず、ひとまず僕は顔を洗うため洗面所に足を向けた。

 その中途。


「うぅ、タコが……タコがぁ……」


「んちゅー……」

 

 苦悶の表情でうなされる赤霧さんに抱きつき、頬にキスをしているルリカの姿が映った。

 いや、あれはもはやキスというより、吸っていると形容したほうが正しい。

 事実。赤霧さんの右頬に、ルリカが吸い付いたのであろう赤い虫刺されのような跡がいくつも残っていた。

 ……というか、待ってくれ。

 あれ、前に赤霧さんを看病した翌日に、僕の左頬にできていたものと似ていないか?

 ということは、あのとき赤霧さんは僕の左頬に……。


「……いやいや、まさかそんな」

 

 現実逃避しつつ、僕はあらためて洗面所に向かう。

 リビングから「ん……え? はへえ!? る、ルリっちなにしてくれてるんスかー!」と、赤霧さんのパニくった目覚めの声が聴こえてきたのは、それから数分後のことだった。

 



 

「それじゃあ、またね。ミツカゲ」


「ま、また夕方に来るっスよー」

 

 朝ごはんを食べたのち。ルリカと赤霧さんは早々に自分たちの自宅に戻っていった。

 今日は学校は休みだが、ルリカは執筆作業、赤霧さんは家の掃除があるらしい。

 玄関先で見送ったあと、僕はリビングに戻り、テーブル上のスマホを手に取った。

 僕にも――ある用事ができてしまったからだ。

 用事というか、相談というか。

 僕は早速RINEを起動し、メッセージを送った。

 相手は、いましがた別れたばかりの赤霧さんだ。


『すみません。すこし話したいことがあるのですが、いつ頃空いていますでしょうか?』


『いま』

 

 即座に既読マークがつき、一秒と経たずに返信が来たかと思うと、遠くからドタドタ……、となにかが迫ってくるような足音が聴こえてきた。

 直後。ピポピポピポピポピポピンポーン! と高速連打でインターホンが鳴らされ、僕が出迎えるよりも早く玄関の扉が開いた。

 もはやホラーである。

 肩で息をしながら「お、お邪魔するっス!」と上がりこんでくる赤霧さん。

 早足でリビングに踏み入り、ゴールを決めたサッカー選手よろしくサーッと膝を滑らせると、赤霧さんは僕の手前でピッタリ止まってみせた。


「お、お待たせしたっス! ミッチー! あなたの隣人、赤霧ナコっスよ!」


「……いえ、むしろもうすこし待たせてほしかったです」


「そ、それで? どうしたんスか急に。わ、私に話したいことなんて珍しいっスねー。ほんとは掃除しなきゃだったんスけど、まあ、ちょうど暇だったんで駆けつけちゃったっスよー」


「ええ。昨夜の件で、ちょっと」


「昨日の……、ハッ!?」

 

 眠たかったとは言え、自分のしたことは覚えているのだろう。

 太ももをモジモジと擦り合わせながら、赤霧さんは気恥ずかしそうに言った。


「ま、まさか……えっと、昨日の続きがしたい、とかっスか?」


「いえ、話の方向性としては、むしろ逆でして」


「……逆?」

 

 首をかしげる赤霧さんに、僕は正座で向き直り、つとめて冷静に告げる。


「赤霧さん」


「は、はい」


「その……昨夜のような行きすぎた行為は今後、ひかえませんか?」


「……ふえ?」

 

 間抜け面で応える赤霧さんに、僕は続ける。


「赤霧さんの覚悟は知っています。そのために、距離を詰めてきていることも知っている……けれど、昨日の『アレ』は、すこしやりすぎじゃないかと思うんです」


「え、えぇー? そうっスかー? わ、私は全然、まだまだ余裕だったっスけどねー」


「……余裕なひとは、そんなに顔を真っ赤にしないんですよ」

 

 僕が指摘すると、赤霧さんは自分の顔――リンゴよりも真っ赤に染まった両頬に手を添えた。

 

 そう。

 この表情からも見て取れるように、昨夜の『アレ』は、眠気で歯止めがきかなくなっていたとはいえ、赤霧さん自身やりすぎだったと自覚しているのだ。

 なんだったら後悔して、反省もしているのだろう。

 だから、僕のRINEにも尋常じゃない速度で反応し、こうして家にも訪れた。

 昨夜の一件で、僕との関係がぎこちないものになるんじゃないかと――そもそも、友達以上の関係を求めることすらできなくなるんじゃないかと、不安で仕方なかったから。


「正直なことを言うと、僕も恥ずかしくて仕方なかったんです。もうすこしあの状況が続いていたら……たぶん、僕は『友達』を越えていました」


「~~ッ、な、そん……ミッチー!?」


「じ、事実だからしょうがないでしょ? 僕も男なんですから。本当にそれぐらい限界だったんですよ……でも」

 

 居住まいを正して、僕は真剣な声音で言う。


「だからこそ、怖くなりました。そのラインを越えたら、赤霧さんの傍にいることもできなくなるんじゃないかって。友達ですら、なくなっちゃうんじゃないかって」


「……ミッチー」


「なので、ああいった過激な行為は、お互い自制するようにしたいんです――それに」


「それに?」


「関係が壊れて、赤霧さんのご飯を食べられなくなるのは、やっぱ惜しいですし」

 

 わざと、おどけたようにそう言うと、赤霧さんは小さく吹き出して、やさしい笑みを湛えた。


「なんスかそれ。私はミッチーのお母さんじゃないんスけど?」


「わかってます。大事な友達ですよね」


「ふひひ。わかってるならよろしい」

 

 ふふん、と胸を張る赤霧さん。よかった。キチンと理解してもらえたようだ。

 互いに笑い合ったのち、赤霧さんは穏やかな顔で目を伏せて、思い返すように口火を切った。


「でも、そうっスね……たしかに、ルリっちに勝手に急かされて、自分らしくない攻め方をしてた気がするっス。もっと私なりの、私に合ったペースで求めていくっスね」


「そうしてくれると助かります」


「ただし! ルリっちはそこら辺、ブレーキかけないタイプっぽいっスから。ミッチーには、喰われちゃわないように気をつけてほしいっス。マジで」


「大丈夫ですよ。前にも言ったでしょ? 僕は……その、一度フッたとはいえ、赤霧さんのことが……」


「……わ、私のことが?」


「き、嫌いじゃないんですから」

 

 眼前の期待の眼差しから逃れるようにしてそう答えると、赤霧さんは静かに顔を伏せたのち、「ふひひ」と笑った。

 その笑い声は、どこか切なかった。


「私のことが嫌いじゃないから、ルリっちに襲われても拒絶できる?」


「そ、そういうことです」


「ふーん……まあ、いまはそれでいいっスよ。お互いの関係維持のためっスもんね」

 

 そう言って、赤霧さんはいつもの笑顔を浮かべてくれる。

 

 七夕祭りの夜。僕は赤霧さんに好きと伝えた。

 けれどそれは、赤霧さんに『私のこと嫌い?』と問われ、それに返答しただけのことだった。

 僕のほうから自発的に、好きです、と伝えたことは、まだ一度もない。

 

 友達なのだからそれでいいだろ――そう考えるもうひとりの自分もいるが、少なからず好意を抱いてるんだからキチンと伝えてやれ、と叱咤する自分もいる。


〝――赤霧、かわいそう――〟

 

 赤霧さんの無垢な笑顔が、いまは胸に痛かった。

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