16話 天然ギャルと明日を約束した。

 カエルや虫の鳴き声が聴こえ始めた、午後九時。

 ふたりして綺麗に夕飯をたいらげたのち、僕は赤霧さんを玄関先まで見送った。

 靴を履きながら、赤霧さんが不思議そうに訊ねてくる。


「ほんとに食器の洗い物しなくていいんスか?」


「赤霧さんにそこまで任せられないですよ。あれぐらいなら僕ひとりでもなんとかなります」


「部屋の掃除はなんとかならなかったのに?」


「……なんとか、なるはずです。たぶん」


「ほんと、怪我だけはしないようにお願いするっスよ……明日の食事提供のときに血まみれになってたりしたら、笑うに笑えないっスからね?」


「充分に気をつけます」


「あと、さっき洗った洗濯物も干すのを忘れずに」


「了解です」

 

 赤霧さんの面倒見のよさに、僕は思わず苦笑してしまう。

 

 僕のこれからの食事を作ってもらう、という隣人条約だが、赤霧さんはなにも毎日三食作りに来るわけではない。

 先ほど話し合った結果、赤霧さんが自宅で調理したものを夕方に二食分、タッパーで提供してくれることになった。

 一食はその日の夕飯、もう一食は翌日の朝食だ。

 サバの味噌煮を作っていたときに同時進行で用意していたのだろう。明日の朝食の食事も、すでに冷蔵庫に保存されている。ありがたや。

 

 昼食も届けると申し出てくれたが、そこは遠慮しておいた。

 昼食なら学校の購買でパンでも買えばいいだろう。

 休みの日は、買いだめしたカロリーメイキングを食べればいい。一食分程度なら問題ないはずだ。……たぶん。

 

 僕の家で作ればタッパーを使う手間も省けるのでは? とも思ったが、友達同士という関係を鑑みればこの提供方法が妥当だろう。

 今回は大掃除という名目があったから家にあがった、というだけの話で、次回以降赤霧さんが僕の家にあがって食事を共にするとなれば、それ相応の名目めいもくないし『理由』が必要になる。

 そしてその『理由』は、友達だから、という一言では説明しきれなくなってしまう。

 だから、タッパーでの食事提供、という折衷案言い訳を使うのだ。


「ほかにも、なにかわからないことがあったら気軽に訊いてくれていいっスよー。『友達』として、ちゃんと答えるんで」


「わかりました。そのときはぜひお願いします。『友達』として」


「……ふ、ふひひ」


「……あ、あはは」

 

 お互い、友達のラインを超えないように。

 この関係は友達の範疇なんだ、と自分自身に言い聞かせるように。

 不可侵条約、だ。

 

 



「赤霧さん、忘れ物ですよ」

 

 玄関前の廊下に出たあと、僕はバッグに詰めた『ロードアビス』のBDボックスを渡した。

 手渡しでもよかったのだが、まあ、こうしたほうが持ちやすいだろう。


「用意していた残りの二作品は、それが見終わったあとにお渡しします。赤霧さんがアニメ初心者であることを考えると、やはり三作品を一気見するというのは酷ですからね」


「助かるっス、二重の意味で……」

 

 BDを受け取り、難を逃れたとばかりにホッ、と安堵の息をつく赤霧さん。

 たしかに、名作を三作品も渡されてしまったら、今夜は確実に眠れなくなってしまうしな。安心するのも頷ける。


「助かるのはこちらです。掃除や布団、おまけに食事提供まで」

 

 そう言うと、赤霧さんは「ふひひ」と面映おもはゆそうに微笑んだ。


「いいんスよー。どれも私が言い出したことなんスから。気にしないでください」


「このご恩は、赤霧さんに色んなアニメを教えていくことで返していきたい所存です」


「ミッチーらしい恩返しの仕方っスね……でも、うれしいっス。楽しみにしてるっスね」


「ええ、期待しておいてください」


「はいっス……あー、えっと」

 

 バッグを肩にかけ直したのち、はにかみながら赤霧さんは口を開く。


「それじゃあ、また明日っスね」


「はい、また明日です」


「ふひひ」

 

 くすぐったそうに笑い、赤霧さんは小走りで504号室に向かう。

 そのまま家に入るのかと思いきや、赤霧さんは鍵を開けたところで僕のほうを振り向いて、悪戯っ子のようにこう言った。


「……お隣さんだからって、夜這いとかに来ちゃダメっスよ?」


「そ、そんなことするわけないでしょう! 僕をなんだと思ってるんですか!」


「えっちな表紙のラノベを見るオタクさん」


「それは……あの、その通りですねッ!」


「ふひひ! 冗談っスよ、冗談! そんな切腹前の武士みたいな顔しなくても! 健全でいいと思うっスよ、私は」


「……赤霧さん、僕をからかうの楽しんでません?」


「ちょっとだけ楽しんでるっス――わわ、ミッチーが怒った! それじゃあ、この辺で!」

 

 また明日ね、と。

 見惚れてしまうような微笑と共に言い置いて、今度こそ家の中に入っていく赤霧さん。

 

 扉が閉まったのを見届けたのち、僕は呆れの吐息をひとつ残し、部屋に戻った。

 小学三年の頃よりは料理センスも上達していたのだろう。食器を一枚も割ることなく無事に洗い物を済ませた僕は、赤霧さんに言われた通り洗濯物をベランダに干していく。

 冷たい夜風が吹きつける中。灯る夜景を見下ろしながら、ポツリ、とつぶやく。


「また明日、か……」

 

 友達条約に加えて、あらゆる偶然の上に重ねられた隣人条約の締結。

 激動とも呼べる僕たちの一日は、こうして静かに幕を閉じていった。

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