第6話 伝票とワイン 2
全て母が死んだあの年から始まった。
外では気丈に振舞っていたって母が亡くなったショックは薄れる事無く俺の中に渦巻いていた。
父は母が死んでからその面影を強く残す弟を見ないために金を振り込むだけの存在に成り下がった。
不安な気持ちは一人になった瞬間に溢れ出して、夜な夜な枕を濡らした。
弟は弱音も吐かずにせっせと母の庭の手入れを続けていた。
母がいた頃は泣き虫だったのに母が死んでから弟が泣いている所を見た事がなくて、それが涙を止められない俺の弱さを突きつけられているようでその時は弟の事が嫌いだった。
嫌いな奴でも家族だし、俺がいなければ金の管理もできなければ洗濯だってできないのだ。
俺がいなければ、なにもできないのだ。
小学生相手にそんな優越感を感じて一人心を落ち着けた。
しかし、中学高校とあがるたびに弟は社交的になっていく。
友達も増えて家にいる時間が減った。炊事に洗濯掃除まで一人でできるようになってしまったし外泊もするようになった。
謎の喪失感と焦燥感に追われた俺は仕事により一層精をだして逸る気持ちを押さえつけた。仕事を中心に生活を送るうちに家に帰ることが億劫になり気がつけば1ヶ月半家に帰らない日々を過ごしていた。
これでは父親と同じではないか、弟の姿を見て心騒ぐのが嫌で逃げているのだと気づかされた。
一人バーで潰れるまで飲み、タクシーに拒否されるほどに酔っ払って飲み足りないと安いワインを購入し家へと向かった。酒に吞まれておきながら何を言っているんだと思われても仕方ないとおもうけれど、向き合わなければいけないと思うから。
俺自身とも、あいつ自身とも見つめあって、この胸の内に渦巻く名前のつけられない感情にけりをつけたい。
ふらふらになりながらの帰り道、駆け足で近づいてくる弟の姿が見えてほっとした。
あぁまだここにいる。
俺の側にいてくれている、そう思ったのに。
弟は俺を家まで運んだらすぐに家を出ていこうとした。
「じゃあ、俺もう行くから」
リビングから弟の姿が見えなくなったところで頭が爆発したような感覚に陥りパニックになる。自分が何をして、何を口走っているのかも分からないほどに混乱したまま喚き続けた。
あやす様に抱きしめられて、置いてかないよと笑う弟を見て、俺はようやくずっとこの弟の事が好きだったんだと気づいた。
俺だけを見て笑って欲しくて、無意識にあいつから人を遠ざけた。
自分の周りに人間をはべらせて人徳を得て、あいつを嫌わせる。
だってこいつは俺のだから、俺以外の奴と話す必要なんてないんだと決めつけていた。
そんな醜い愛情に気付かずにいた。
今更気づいたって遅いかもしれない、だけどこのままなにもしないでいられるわけもない。
この日から俺は昔の償いをするように弟に甘え、甘やかすようにした。
一人になることは怖いし、それ以上にこの愛しい弟を手放すことが恐ろしい。
朝昼晩とできる限り行動を共にし、自ら弟へ食事を与える。
俺が与えられないから昼飯は食べてはいけないと言いつけた。
それでもにこにこと頬を染めて嬉しそうにそばで笑っている弟がたまらなく、狂おしいほどに愛おしく、愛らしい。
そんな幸せな日常のさなか、ふと俺がいなくなったら弟はどうするのだろうか、という疑問が頭をよぎった。
心配、してくれるだろうか。
1度考えて始めてしまった思考は止まることを知らず、断っていた海外出張を引き受けて外国へと飛んだ。
家に置いてきたカメラで1日中弟を見つめた。
弟は食事を一切取らずに点滴をうけて栄養を取り始めた。
飲み物だけは許可していたので飲料は自由に飲んでいたものの、その飲み物すら俺が日頃好んで飲んでいるミネラルウォーターに変わっていた。
少し前までは水の何が美味しいんだと首を傾げていたのに。俺色に染まっていてくれた弟に征服感のような安心感を得た。
広い家の中を心細そうに俺の痕跡の残った場所で眠る弟の姿に味を占めた。
度々家を空けて、一人残された弟の反応をみる。
俺を置いていかないか、俺を求めてくれるか、寂しがってくれているのか、確かめるように空いた時間は監視カメラを眺め続けた。
そんな日々を過ごすうちに弟は俺がいないと生きて行けないんだと確信を得た。
気がつけば俺の心の中には歓喜や束縛の感情ではない、他の気持ちが芽生えていた。
限りなく不安定な弟に対する安心感や、愛情だった。
好きとか愛してるなんて言葉じゃ足りないほどの愛が離れれば離れるほどに深く感じられるのだ。
母親や父親の事さえ思い出す余地のないように、俺一色で染まるように。
そんな願いをかけて、母の匂いだった植物の優しい香りに包まれたこのカフェで俺はにこりと笑ってお前に別れをつげる。
伝票を抜き取って空になった伝票入れの空洞の様な悲しい瞳をした弟のことなど目に入らずに。
短編詰め やちちち @yachiiii_momosuke
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