第5話 伝票とワイン

いつもあの人は俺を置いていく。

雰囲気のいいオシャレなカフェに一人ぽつりと座って空になった伝票入れを無造作に弄ぶ。

あの人は俺の彼氏とも恋人とも兄とも呼べる存在で決して周りに悟られてはいけない関係だ。

内気だった幼少期は、亡くなった母が残した自慢の庭をずっといじって過ごしていた。

しかし一方兄は好奇心旺盛で明るく人望もある、クラスの人気者だった。

家でもろくに会話もせず机に置いてあったお札でご飯を買ってひとりでご飯を食べる。

接点なんてまるでなかった。

それが変わったのは俺が高校1年、兄が社会人になった頃のことだった。

内気だった俺も少しずつ変わって、友達も増えたし外出も増えるようになっていた。

その日も友達と泊まりで遊ぶ予定が入っていて、ご飯を食べた後に家を出た。

家を出て数分も経たないうちに兄がふらふらと家へ向かっているのが見えて、放置できずに友達に遅れるかもと連絡をして兄の元へと駆け寄った。

「なにしてんだよこんなふらふらで。」

「…?家に帰るんだよ…」

顔は真っ赤でどこからどう見ても酔っ払っいだ。

家になんかしばらく帰ってきていなかったくせに急になんなんだよ、というのが俺の素直な感想だ。

放って友達の家に向かっても良かった、けれど今にも転びそうな兄を置いていく事もできずに家まで運んでやることにした。

「ほら、家ついた。じゃあ俺行くから」

そう言って再び玄関の扉を潜ろうとした瞬間勢いよくビンが割れる音がして急いで振り返った。

そこには割れたワインのビンを持った兄が泣きながらしゃがみこんでいる。

「なんで、俺を置いていく、お前は小さい頃からそうだった。母さんが死んだのに、全然泣かずに前を向いて頑張ってる。俺だけが過去に縛られてる。」

初めて聞いた兄の本音。

母の死を悲しむより、現実を受け止めなければ生きていけなかった俺とは違って、優しい母にいい友達に囲まれて幸せの絶頂だった兄は酷い絶望に襲われたのだろう。

俺は夜な夜な泣いていたのを知っていた、知っていて知らないふりをしていた。

仲間に囲まれてるからそいつらに慰めてもらえばいいのにって兄の叫びを無視していたのだ。

この日初めて兄が酷く脆い人間なのだと理解した。

知って、受け入れて、飲み込んで理解した。

「置いてかないよ。そばに居る。」

家族として、弟として兄を支えると誓った。

恋人という関係が追加されるのもすぐのことだった。

あの日から兄は人が変わったように甘えたになった。

仕事が終わればすぐに帰ってきて俺が家にいるのを確認してホッとしたように息を吐く。

一人になることをとても恐れているようだった。

ご飯も俺を足の間に座らせて兄が俺の口まで料理を運び、風呂も一緒にはいる。

朝は学校まで俺を送ってから仕事へ行って昼飯は食べてはいけないと言いつけられた。

こっそり食べていたのを知られた時に平手打ちをされ泣かれてしまってからは大人しく兄に従うようにした。

決して不幸ではなかった、やっと兄が俺自身を見てくれて嬉しかった。

それなのに、兄は唐突に俺を置いて出ていった。

海外への出張で3ヶ月、俺に告げなかったのは心配して欲しかったからだとへらへらしながら言った。

帰国してから5ヶ月後今度は単身赴任で2ヶ月半、また知らされなかった。

間隔を開けて度々知らせもなく置いていかれる。

いつ兄に捨てられてしまうのかはらはらしながら毎日を過ごしていた。

ある時から兄は長期間出かける前にとあるカフェに呼び出すようになった。

そして俺の目をみて、にやりとした顔で行ってくるねと笑う。

母の愛した庭のように美しい植物に囲まれたその場所で別れを告げる。

もう、兄が与えてくれなければ食事すらままならないというのに。

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