その7

 ほんの数分後、再び個室のドアが軽くノックされた。

 

 俺は彼女の方をちらっとみる。


 先生は小さな声でドアに向かって、


『どうぞ・・・・』と呼びかけた。


 スライド式のドアが横に開く。


 廊下の向こうに立っていたのは、紺色の地味なスーツにベージュのブラウス。胸には小さなブローチをつけた小柄な女性・・・・髪を後ろで束ね。薄化粧を施している。


 その姿が目に入った瞬間、『先生』は、もとの『美しく老いた芦川いづみ』に戻っていた。


『五条院・・・・さんなの?』彼女の目にみるみる涙が膨れ、しっかりした足取りで椅子から立ち上がった。


『先生・・・・お久しゅうございます』


 五条院涼子は深々と頭を下げた。その声は幾分かすれてはいたものの、あの酒場の片隅で薄汚く、野卑に笑っていた女の姿は完全に消えていた。


『先生』は、ベッドを回って、涼子の元に歩み寄り、差し出された手をしっかりと握りしめた。


わたくしのこと、嫌いじゃなくって?こんなお婆ちゃんなのに?』


 涼子は静かにかぶりをふり、


『いいえ、先生は先生でございます。学生時代と同じで、とてもお美しくていらして・・・・先生からのお手紙拝見して、とても嬉しゅうございました。じつはわたくしも、あの頃からお慕い申し上げていたのでございます』


『先生』の目の中の涙がついに頬にあふれ出し、二筋の流れを作った。


『五条院さん・・・・』


『先生』


 二人はどちらからともなく抱き合う。


 後ろに立っていた若い介護士の男性はあっけにとられたように目を見開き、何か言おうとしたが、俺は彼の肩を叩いて促し、黙って室外に出る。


 その時、ちらっと後ろを振り返ると、二人はしっかりと抱き合い、窓から降り注ぐ秋の日差しの中で、互いの顔を重ね合わせているのを確認すると、俺は後ろ手に扉を閉めた。


 その後?


 その後あの二人がどうなったのか、俺は知らない。


 ただ、後からマリーが俺の事務所を訪れ、


『助かったわ』と礼を言い、これは彼女の妹からだといって、残りの探偵料にいささかをつけて払ってくれた。


 俺は封筒の中身を数えてから、


『礼には及ばん。あんたにも助けてもらったからな。ハリウッド仕込みのメイクアップアーチストさん、いい仕事をしてくれたよ。いつも通りコニャック一杯でいいかね?』


『こっちもをつけて貰うわ。二杯でどう?』


 悪戯っぽく微笑んだ。

 



                            終わり


*)この物語はフィクションです。登場人物その他全ては、作者の想像の産物であります。




 

 

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記憶の恋の物語 冷門 風之助  @yamato2673nippon

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