第34話 約束の地 3 (了)

 御池通より北、高瀬川沿いには旅籠や料亭が立ち並んでいる。先斗町にも近い上木屋町は、夜更けになっても華やかな提灯が道なりに連なっていた。

 相模屋利平は”きぬ笹”の奥まった鴨川を見晴らせる座敷で、ひとり盃を傾けていた。

 急な来客で、今夜の会合へ辰吉を向かわせたが、一刻ばかり遅くなってしまった。ほどなく戻ってくるだろう。

(内藤新三郎)

 あの男の始末も、そろそろ考えたほうがよさそうだった。

 新選組の近藤らと昵懇であるため、強引なやり口で京へ連れてきたが、所詮生え抜きの幕臣である。それに、沖田総司への執着ぶりから、何やら害になりそうな気配がしてきた。

(だが、あれほどの遣い手を殺るとなると)

 利平は懐に隠し持った短銃を確かめるようにさすった。

 通りの方で、声高に言い合う声が聞こえた。

 なおも耳を澄ましていると、お栄の制止する声に乱れた足音が続き、こちらへ向かってくるようだった。

 利平は盃を傾ける手を止め、油断なく正面を凝視して座りなおした。

 足音は座敷前で止まった。間合いを計るかのように、一瞬の沈黙があった。

「相模屋だな」

 利平はそろりと敷物から下り、懐の短銃を握った。

「──そのお声は新選組の土方様でございますね」

 応答のかわりに襖が開き、何やら丸い包みが投入れらえた。

 鈍い音をたてて転がると、利平の膝元でぴたりと止まった。

 廊下に土方の端正な横顔があった。

「土産だ。忠義者は命を粗末にしていかん」

 白布に包まれたそれの所々に黒い染みがある。利平は怪訝に見やって手に取った。

 丸い、丁度脇にかかえられるほどの大きさである。

 利平はそれが何であるか、悟った。すぐさま両手で抱え、卓上にそろりと据え直した。

 その手付きに、土方の目が細くなる。

「言い訳ではないが、俺ではない。その忠義者は何も言わずに自害しやがった。役人の手に渡っては不都合と思ってな。首だけ持ってきた」

 利平は肩で大きく息をしてから土方を睨み付けた。普段の温和な仮面はかなぐり捨て、全身から殺気を漲らせている。懐から短銃を取り出し激鉄を起こした。銃口はまっすぐ土方の心の臓を狙っている。

 土方は、眉一つ動かさなかった。

「これでひとつあんたに恩を売った。当分の間それを忘れんでもらおうか」

 大胆にも背を向ける。

「撃つなら撃て。ただし、その時は新選組と心中を覚悟してもらおうか」

 言い捨てて立ち去る土方に、利平は目を剥き、怒りに肩を震わせながら廊下へ走り出た。

「お待ちなさい!」

 土方の背が止まる。

「この土産、確かに有り難く頂戴いたしました。なれどこのようなお気遣いは、今後一切無用の事に存じます。互いの為にはなりますまい!」

 土方の口許に、あざやかな笑みが浮かんだ。

「そうだな。俺も自分がここまで物狂いだったとは知らなかった」

 振り返り、

「あんたもだ」

 利平は短銃を床へ投げ捨てると、辰吉の首の前に座り込んだ。遠ざかる足音を聞きながら、押さえても押さえ切れぬ怒りにぶるぶると全身を震わせた。




 土方は、ぶらりぶらりと夜道をたどった。

 供ひとり連れず、時折月を見上げて句をひねってみたりする。

 浄念寺で辰吉の首を落とした後、誰にも行く先を告げず、木屋町の”きぬ笹”へ向かった。運よく、手土産を相模屋へを渡すことができた。

 用件は、すべて済んだ。

 あの場で利平を斬り捨ててもよかった。だが、江戸より戻った近藤がその始末に窮するであろう。

(少なくとも、あの男の鼻を明かしてやった)

 ささやかな意趣返しに、ひとりでに笑みがこぼれた。

──総司……。

 いまごろ、何処にいるだろう。

 お膳立てはした。あとはあの男が沖田を攫ってどこぞへ落ちてくれればよい。浄念寺の一件は、かすかに感情を波立たせるが──。

──もはや何も言うまい。

 屯所へ戻り、恐らくはおのれの不在で右往左往している隊中を鎮め、後の手配を山南へ託して、そして。

 月を見上げる土方の口許に、さえざえとした笑が浮かんだ。

 迷いはなかった。決めると、おのれでも驚くほど、のちへの未練が消えた。

 土方は四条通を折れ、綾小路へ入った。

 その時である。

 突如、背後で刀が唸った。

 振り向き様に鞘走るが、間に合わない。

 迫る刃に、毛穴から一斉に汗が吹き出した。

 しかし、それはいつまでたっても土方の眉間を斬り裂こうとしなかった。寸前でぴたりと止まり、やがて引いた。

「……総司!」

 闇から現れた刺客に、土方は目を見張った。

 沖田である。積年の仇であるような目で土方を睨みつけている。頭と言わず顔と言わず、着衣の至る所に血が飛び、全身血まみれだった。

 土方は悟った。

 沖田は、内藤新三郎を手にかけたのだ。

「お前……」

 問い質そうとした土方の喉元を、沖田の切先が再び捕らえた。

「教えてください。何故なんですです! 何故私に馬で行けと命じたのです!」

 土方は緊張を解くと、沖田の刀下へ全身をさらした。

「答えてください。答えてくれなければ、ここであなたを、……斬ります!」

 土方は無言のまま踏み出した。沖田が慌てて刀を引く。その刃先が頬が触れ、血が流れた。

 また一歩出る。

 気押されるように沖田は後ずさった。構わず土方は追い詰め、土壁に背がついた。

 沖田は耐えかねたように叫んだ。

「来ないでください! それ以上近づくと……」

 ふと土方の目元が笑んだ。

「お前に斬れるのか?」

「土方さん」

 途端、刃が力を失い、落ちた。

 沖田は顔を背けた。

「あなたは卑怯だ」

「そうかもしれん」

 土方は指を伸ばし、頬へ触れた。沖田は怯えたように身を竦めている。

「総司」

 びくりと震えた。

「俺は、勇さんとおまえには、自分の命を賭けても惜しくないと思っている」

 それが沖田ののぞむ答えではないと、土方は知っていた。しかし、与えることはできなかった。応えることはできないが、沖田がかけがえのない存在であることに変わりはなかった。

 沖田の望みと、おのれの希みと、その違いをどうすれば伝えることができるのだろう。

(それでも、俺は死ぬまで総司を手元におくだろう)

 どれほど自儘なことであっても、自ら手放すことは考えられなかった。

 おのれは希み、沖田も望んでいるのである。

 代償は、払わねばならなかった。

「総司、ひとつだけ約束してやる」

 沖田がのろのろと顔を上げた。

「その時がきたら言え。俺がこの手で引導を渡してやる」

 沖田が息を飲んだ。

「いいな」

 土方は微笑んだ。

 皓々と月が輝いていた。揺れる影を踏んで、土方は屯所へと歩み始めた。躊躇いがちに踏み出した足音が、背後につき従う。

 土方の歩みは淀みなかった。




(了)

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無明の酔 濱口 佳和 @hamakawa

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