第33話 約束の地 2
土方の別宅は下長者町千本にあった。到着すると、すでに一頭の馬が繋いであった。沖田はその横へおのれの乗馬を留め、張り詰めた面持ちで戸口を潜った。あっさりとした造りの町屋である。妾をおくわけでもなく、普段は空家同然の家であった。
沖田は土方が居間とする奥の八畳へ向かった。開いた襖から明かりが漏れていた。
「内藤さん、総司です」
内藤新三郎は床柱に背に端座していた。沖田を見上げ、ゆったりと微笑んだ。沖田はその横へ滑るように膝をついた。
「逃げてください。追手は私ひとりです。土方さんも承知していますから、早くあの馬で発ってください!」
内藤は答えない。
「今夜、大掛かりな手入れがあります。街道筋の詮議が厳しくなる前に、江戸へお発ちください」
内藤の指が沖田の頬へ伸びた。頤をかすめ、衿元で止まった。
「何も聞かないのだね」
「知らずともよいと言ったのは、新三郎さんです」
指が離れた。沖田をじっと見つめ、そして口元を綻ばせた。
「おまえはここで腹を切るつもりか」
沖田は眉をしかめた。
「なに馬鹿なこをおっしゃるのです。それより一刻も早く」
「ならば、それはなにゆえだ」
内藤は沖田の手を掴み、引き寄せた。着物の下に着込んだ白無垢を露にして、突き放した。
沖田は内藤を睨み上げた。
「私の思い違いか、総司」
「行ってください。私はそのために来たのです」
「違う」
「違いません!」
激しく言い返した沖田へ、
「お前は勘違いをしている。土方は、お前を死なせるために寄越したのではない。お前と京から落ちろと言っているのだ」
「そんなことあるわけないでしょう! そんなことをしたら、土方さんのお立場が……」
と、沖田は息を飲んだ。
「まさか、馬で行けと言ったのは……!」
慌てて飛び出ようとしたその鼻先に、白刃が迫った。
内藤は一分の隙もない構えで、刃を沖田の喉元へあてた。
「行くことは許さん。土方は承知でお前を預けたのだ。それを無にするつもりか」
沖田は壁際に下がった。切先は生きもののように吸い付いてきた。
「土方はお前に生きろと言っているのだ。それがわからないのか!」
沖田は激しくかぶりを振る。
「わかりません。こんな身体で生きろと言われても、何の意味もありません。私のこの命であの人守れるなら、いつ捨ててもいい!」
きっと内藤を睨む。
「私が死ねば、八方丸く治まるんです。こんな命、ここで捨てても……!」
鯉口を切った。内藤の切先をはね上げて、青眼に構える。
「馬鹿者!」
内藤は振りかぶった沖田の剣先を払った。勢いで泳いだ身体を抱きとめる。
「離せっ!」
手首を締め上げると、呆気無く刀を落とした。内藤は足を払うと、床へ引き倒した。
「離してくださいっ!!」
四肢をばたつかせる沖田を、内藤は構わず組み敷いた。
戒められた手足はびくともしない。沖田は遮二無二な抵抗やめると、内藤を射殺さんばかりの勢いで睨み上げた。
内藤の目元が綻んだ。首筋に顔を埋め、拒絶する頭を押さて口唇を合わせた。
沖田は逃れようと身を捩る。息苦しさに貪るように息をついだ。その機会を捕らえて、内藤はなおも深くかれを捕らえた。
沖田は抵抗ををやめた。内藤の手に身を任せ、観念したように目を閉じた。手を伸ばす。左右へゆっくりと探った。爪先に取り落とした大刀の柄が当った。
「総司、おまえが戻らねば、いずれここへ追手が来よう。その時、お前と私の姿は消えていれば、土方のとる道はひとつしかないだろう」
「私は、行きません」
「土方は、おのれの命を賭けた」
「お願いですから離してください」
「わかっているのか。おまえはそれ以上、土方に何を望むのだ」
「離せ!!」
満身の力を込めて、沖田は内藤を跳ね退けた。
「総司!」
内藤の手が傍らの大刀へ伸びる。迸る殺気に、沖田は握り直した柄を振り上げた。
刃と刃が打ち合う、鋭い金属音が響いた。
沖田は一歩も譲らぬ気迫で、内藤の双眸を見据えた。
「仕様の無い奴だ」
笑みをひらめかせ、内藤が崩れた。沖田は我に返ると、あわててその身体を抱き起こした。血で手が染まった。
衿を開く。沖田の刀は右胸から肩先までを斬り上げていた。一見したところ、命にかかわるほどの深手ではない。
ほっとして止血しようとした時、内藤が腹に巻いた晒しに気づいた。赤い染みはそこから広がっていた。
「内藤さん、あなた……」
内藤は身じろぎ、閥の悪そうな顔で笑った。身体を起こそうとして苦しげに眉間を寄せると、そのまま沖田の腕の中へ崩れ落ちた。脂汗が玉のように額に浮かぶ。
「動かないでください。今、医者を呼んできます!」
その手首を内藤がつかんだ。驚くほど強い力だった。
「大丈夫です。すぐ戻りますから」
宥めて行こうとする沖田を引き止めた。
「無駄だ。この傷では助からない」
しっかりとした低い声だった。軽く咳き込むと、口端を血が伝った。
「どこでこんな怪我をされたのです」
言って、沖田は口を噤んだ。
「まさか……」
──陰腹ではないか。
沖田の疑念を悟ったように、内藤はゆるゆると首を振った。
「普段より対手が多すぎてね。つい不覚をとった。確か浄念寺とかいう寺だ。悪徳商人と不逞浪士が結託して、悪貨を蓄財していると小耳にはさんでね。正義正道のため、鬼退治にでかけたのだが、このざまだ」
喉で笑う。くぐもっと笑い声は、しばらく続いた。
「こんなつもりではなかった。どんなに嫌がろうと、お前を攫って京を発つつもりだった」
(この人に何があったのだろう)
再会した内藤は、影を負っていた。江戸の頃と違う昏く、血の臭いのする影だった。昔と変わらぬ優しい言葉をかける一方で、時折、激しい目でおのれを見た。それを知っていて、おのれは何も尋ねなかった。内藤は、そうやって手を伸べていたのかもしれない。自分へ助けを求めていたのかもしれなかった。
(それなのに、私は──)
「総司、何を泣いている」
血に染まった指先が、頬に触れた。
「私は嬉しいのだ。やっと最後に土方の鼻を明かしてやれた。お前が私の首を持って戻れば、あの男がどんな顔をするか楽しみだ」
「そんなこと、できません!!」
「私のささやかな復讐だよ」
内藤は沼のような瞳を向けてきた。命が消えようとしている。沖田は内藤の望みに、幼子のように首を振った。
「とどめを刺しなさい。骸はお前にやる」
沖田は、内藤を抱きかかえたまま首を振り続けた。そうすれば、すべてが解決すると信じているのか、懸命に同じ動作を繰り返した。
内藤の胸が波うつたびに、血が床へ滴った。腹の傷が致命傷であることは、沖田にもわかっていた。
内藤は、いつも何事かに深く煩悩していた。人を手に掛けるたびに、死の影が濃くなっていった。
(この人は死場所を求めていたのかもしれない)
その憶測が、沖田の判断を鈍らせたのだ。その迷いこそが、今の事態を引き起こした原因だった。
(ならば、決着を)
──私の手でつけねばならないのか。
沖田はのろのろと内藤の脇差へ手を伸ばした。
瞑目する横顔にじっと目を凝らした。柄を握る手がぶるぶると震えてくる。
刃を向けたまま、沖田は動けずにいた。
「早く戻らねば、土方が腹を切るぞ」
内藤は励ますように言って、その手を自ら掴みおのれの心臓にむけた。
「お前の手で死にたい」
ふわりと笑った面影を、沖田は叫び声をあげて切り裂いた。
「御免!」
刃の沈む感触に歯を食いしばった。
(続く)
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