第32話 約束の地 1

 浄念寺は東山仁王門にある浄土真宗本願寺派の末寺である。土塀に囲まれた寺領はさほど広くもなく、山門と裏門、出入口はその二か所のみであった。

 山門側は、原田左之助が指揮する斬込み隊十余名が受持ち、裏門の守備に土方がほぼ同数の隊士を連れて待機した。

 残りの隊士は、塀を乗り越えて逃亡する浪士の捕縛に当たる。

 正面の原田隊は、いわば陽動作戦上の囮であった。物音を派手にたてて斬込み、あわてて裏門から逃げる浪士らを一網打尽にする手筈だった。

 そろそろ原田隊が突入する時刻だった。

 土方は、隣りの斎藤一へ頷いた。斎藤はするすると塀づたいに下がり、低く指笛を二度鳴らした。

 ほぼ同時に板戸を蹴倒す音が聞こえ、野太い声が響きわたった。

(来るぞ)

 逃れてくる獲物を待ち受ける。

 数人の足音がばらばらと近付いてきた。

 大刀が、潜り戸から覗いた頭へ振りかぶられた、その時。

「一寸待ったァ!」

 慌てて引っ込んだ頭が頓狂な声を上げた。

「土方さん、俺だ。左之だ。ぶっそうなものを引っ込めて、早く庫裏へ来てくれ」

「何事だ!」

「説明するより、来てもらったほうが早い!」

 抜き身を下げたまま、土方と斎藤は原田に続いて庫裏へ駆けた。

 原田らが蹴倒した板戸の向こうに灯りが見える。

 上がり込んだ途端、土方は思わず口を覆った。

 一面、血の海である。むせかえるような臭気の中に屍が転がっていた。

「何だこれは!?」

 ざっと数えただけでも十人余が斬殺されていた。中には町人も混じっており、背中から断ち割られ、うつ伏せに倒れ込んでいた。力量に格段の差があるらしく、浪士らは正面から急所を一刀で斬下げられ、絶命していた。

「こりゃ一体どういう事だ。俺らよりも先客がいたっていうのかね」

 修羅場を見慣れているとはいえ、あまりにも醜惨な光景に原田も顔を強張らせている。立てきっている板戸を開き、ようやく一息つくことができた。

 土方は、傷を改めた。

 左肩から一刀で斬り下げた太刀傷。

 見知った太刀筋だった。大阪の商人を次々と殺害した、あの太刀筋である。

(──内藤か)

 あの男の言葉を信じて、襲撃の刻限を当初より一刻遅らせた。これがその結果だった。

(何度俺をこけにしたら気がすむんだ!)

 山門の方で、わっと声があがった。

 原田が確かめに行く。

 隊士がひとり駆けてきた。

「怪しい者を取り押さえました! 町人です」

「町人?」

 駆けつけると、若い男が数名の隊士に押さえつけられていた。

「こいつです。山門から入ろうとしたので誰何したところ、逃げだしたので取り押さえました。本人は法要の相談に来たと言っています」

 土方は頷いて、押さえ込まれている男の側へ片膝をついた。

「名を言え」

 はじかれたように男が顔を上げた。その目が張り裂けんばかりに見開かれた。

「お前は…!」

 慌てて顔を背けた男の衿をつかみ、力任せに引き寄せた。顔色を失った男は覚悟を決めたか、挑むような目で土方を睨み付けた。

「どなた様でございますか」

「うるさい!」

 土方は勢いよく突き放した。男は後手に縛られたまま地面を転がった。

「相模屋の番頭で、辰吉とかいったな。このような刻限に何用だ。利平の使いか」

「手前は法要のご相談にご住職へ」

「ふざけるな!」

 拳で殴った。

 土方の心中を様々な思いが駆けめぐっていた。周到に計画した襲撃を損なわれ、怒りが出口を求めていた。

 そもそも相模屋がすべての元凶だった。相模屋さえいなければ、何の波風もたたなかったのである。内藤現れなかったろうし、沖田を手放さずとも済んだ。馬鹿馬鹿しい事の成り行きに、おのれの命さえ裁量せずに済んだのである。

 土方は凄惨な笑を浮かべた。復讐を果たさねば、気がおさまらなかった。

「辰吉、相模屋も不覚をとったな」

 突然、辰吉の身体が折れ曲がったまま細かく痙攣を始めた。

 斎藤が慌てて引き起こし、指を口に突っ込む。

「この馬鹿、舌を噛んだぞ!」

 口腔へ巻き込んだ舌を出そうと、斉藤は血まみれになりながら蘇生を続けた。

 みるみる辰吉の顔は青黒く変色し、数度大きく痙攣したあと、あっけなくこと切れた。

「──死んだ」

 屍を地面に下ろした。

「何をするんですか!?」

 土方は大刀を抜き放つと、辰吉の横に突き立てた。



(続く)


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