第十四章 祖国の価値は  令和十年十二月十七日(日) 蝦夷森マヤ

令和十年十二月十七日(日) 北海道札幌市・旧北海道庁学務部


 旧北海道庁別館内、アイヌモシリ共和国文部科学大臣臨時執務室前。

 あたしは廊下の左右に目をやり、執務室のドアをノックする。

「陸軍情報部、蝦夷森マヤ少尉補入ります!」

「空いてるから、勝手に入りな」

 中からは、まるで兵役経験者らしくない知った声が聞こえてくる。何か物音がするけど、部屋の中を整理しているみたいだ。

 あたしは部屋の中に入ると静かに扉を閉め、回れ右をすると部屋の主に敬礼した。

「陸軍情報部、蝦夷森マヤ少尉は高山文部科学大臣に用件あり、参りました!」

「あー、そういうのいいから楽に休め。ここは軍隊じゃなく、教育行政を司る場所である。堅苦しい入室要領なんて聞きたくもない」

「そうですか、失礼しました」

「分かればいい。ちなみに軍隊の事務室というのはヤクザの事務所に近く、営内生活は明るい刑務所のノリだ。覚えておけ」

「ではお言葉に甘えて、楽にします。どうして先生がいま新政府の文部科学大臣をやっているのかとか、そういう話は置いておきますね」

「是非ともそうしてくれ。大人の事情がある」

「昨日の政府間交渉の件、伺いました。東京は国家としてアイヌモシリ共和国を認めることもしないし、戦争状態にあるとも認識はしないけれど、民間人への犠牲を考えて北部方面軍による鎮圧は行わないと」

 高山大臣は昨日の政府間交渉に、政府のオブザーバーとして同席していた。文系全般にわたる、幅広い知識を買われての登用らしい。今、あたしの立場で最も話を聞きやすい閣僚は、防衛大臣を除くとやはりかつての恩師だった。

「知っての通り、部隊には警備担任区域というものがある。旧十一旅団の担任区域の一部を我々が掌握しているところ、ミリタリー対ミリタリー……いわゆる『ミリミリ』の関係に至ることだけは回避できた。十一旅団管内に対し、他の二個師団一個旅団は越境を行わない。また、アイヌ民族が歴史的に多い胆振・日高の両管内も将来的には共和国領として扱われることになる」

「外交的には勝利ですね」

「諸外国の目から見れば一応は『正当に選挙された実効政権』、というのが効いた。まだ正式な話ではないがな。ただ、東京の内務省とは完全に対立中だ。なにしろ新政府が接収したこの北海道庁自体、内務省の外局だからな。従って、警察力の不足が懸念される。それに関しては、旧北部方面憲兵隊のうち恭順してきた勢力を使う。昨日の夜、そういうことで話がまとまった」

「け、憲兵隊を!?」

「ああ。条件としては、『一切の政治警察業務を行わない』とのことだ」

 あたしの頭に思わず、お姉ちゃん――甘粕真琴憲兵中尉の顔がよぎった。

「でも……憲兵隊は旧十一旅団とは、指揮命令系統も人事も別でしょう。むしろ、反乱を取り締まる立場にあったはずです」

「勘違いするな。アイヌモシリ共和国の崇高な理念に打たれ、憲兵隊は『自発的に』恭順を申し入れてきたんだ。そういうことで納得しておけ」

 その言い回しは、言外に裏があると言っているに等しい。いったいどんな裏取引が行われているんだか……。

「なあ、蝦夷森。お前さんがた生え抜きの共和同盟は、軍人としての旧十一旅団の連中が、朝鮮戦線で人民軍に受けた労働改造の中身を知っているか?」

「……いえ、恥ずかしながら」

「ドストエフスキー曰く、『もっとも残酷な刑罰は、徹底的に無益で無意味な労働をさせること』だそうだ。戦時国際法上、将校ではない下士官兵の捕虜に労役を課すのは禁止されていない。同じ穴を掘っては埋め、掘っては埋めの毎日……そんな状況で書物が与えられたら、人間は貪るようにそれを読み入るよ」

 そんな……そんな非人間的な方法で『改造』され、あの人たちは『社会主義国家』を夢見て戦っているんだ。

 儚いなあ……儚い。人が夢のそばに近寄ると『はかない』って読むんだよね。共和同盟が社会主義経済を綱領に入れて戦ったのは、実のところ和人の社会主義者とソ連の支持を得るための方便に過ぎない。

「通貨は……通貨圏は、どうなりますか? 円経済圏案に? ルーブル案に? それともアイヌモシリ・ピリカ案に?」

 国際金融のトリレンマ、という有名な経済学の理論がある。またの名を『不可能の三角形』。自由な資本移動、固定相場制、そして独立した金融政策は鼎立しない、つまり三つすべてが同時に実現することはないというものだ。

 情報部は総合安全保障の観点から、軍事的な情報収集・分析以外にシンクタンク的な役割も持っている。あたしは軍部の利益代弁者として法律・政治・経済・外交を幅広く取り扱い、理論化するセクションに所属している。だから『君主派』筆頭の榎本大統領のブレーンとして呼ばれたであろう高山大臣とは、うまくやっていかないといけない。『落としどころ』を探るのが、あたしたちの役目だ。

「協議の結果、円経済圏案で行く予定だ。本土、朝鮮、台湾、関東州、南洋で通用するうえ、満州国円ともペッグしている」

「な……! 中央銀行を設置しないんですか、共和国は! 固定相場制やペッグ制に固執して失敗した例が、歴史上いくつあると……」

「だから変動相場制の、アイヌモシリ・ピリカ案がいいと言うのか?」

「そうです」

「……残念だが、アイヌモシリ共和国の経済状況と産業構造を見てみろ。独立した中央銀行に通貨を出させれば、通貨の信認が崩れて国民の財産が短期的に損なわれる。そう判断しての決定だ」

「断乎不承知ですッ! どこの世界に独立戦争を始めて、旧宗主国の通貨を自ら進んで使い続ける実効政権がありますか!」

 ……異常だった。あたしの知る『独立』のケースを考えてみても、そんなものはどこにもない。

「普通の独立戦争ならば、確かにそうだろうな。ということは、簡単な話だ。この独立戦争が、そもそも普通ではない。そう考えるのが自然だろう? 政治とは、汚れの中にまことを見出すものだ。軍部についた杉原のように一本気な人間には、永遠に分からんだろうがな」

 ぐ、と息を飲む。かつての恩師との腹の探り合い。『君主派』のブレーンは、一筋縄ではいかない。反社会的な人格の癖に、恐ろしく頭がいい。

 あたしたち『共和派』は日本側の『事情』を逆に利用して共和同盟を拡大し、独立戦争を始めた。けれどその代償に引き入れた人材の手で、事態のイニシアチヴは失ってしまったと言わざるをえない。現にあたしたち共和派は、『大統領』のポストを君主派に譲らざるをえなかったではないか。

「いいか蝦夷森少尉補、『東京』を侮るな。連中が仮に、民族的には和人が多数を占める土地で起きた『札幌事変』すら収められないようなボンクラなら、京城けいじょうの朝鮮総督府は既に陥落しているよ。連中が本気なら、千歳の第二航空団を駆り出してこの戦争は力技で終わらせられる。だが、奴らはそうしない」

 確かにそうだ。こちらが押さえたのは丘珠おかだま衛戍地のわずかな回転翼機と、偵察や連絡に使う固定翼機だけ。それに対して敵方は帝国陸軍航空総軍、北部航空方面隊第二航空団の戦闘機部隊がまるまる千歳に残っている。

「トップの首がすげ変わらない独立戦争など、あるものか。これは『維新』だ。独立戦争というものは下から起こり、上の旧支配階級が特権を捨てさせられる。それに対して維新というものは権力を握っている者が起こし、別の権力を倒したうえで自らの特権を捨てる。だから下士官兵ではなく反乱将校が主導した二・二六事件は、今でも『昭和維新』と呼ばれる」

 君主派と手を結び、社会主義勢力を取り込み、本来の政治路線を修正したうえでやっと『民族自決』の体裁を整えたのが、『アイヌモシリ共和国』だ。その政治的打算を指して、高山大臣は毒を吐く。

「共和国憲法前文にある通り、『アイヌモシリ共和国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動』する。――蝦夷森少尉補、私は教えたはずだ。生きることは、知ることである。知ることを恐れてはならないと」

 そうだ。高山大臣の授業は、いつだってそういう『本質』に触れるものだった。中学の受験国史ではない、本物の歴史学を教えられる教員だった。――この先生なら、あたしの話は分かってくれるはず。

 あたしは鞄から、切り札を取り出した。油紙に包まれた、『時を越えた教科書』だ。

「高山『先生』。お忙しいところ恐縮ですが、お目通しをお願いします」

「……なんだ、このボロボロの本は? 『高等学校の検定教科書』だと? 文部省の検定教科書制度は、中学までだろうが」

「新政府の『文部科学省』という名前は、その本の中身から名付けられたものです。そしてその教科書は、あたしたちの世界が『歪められた歴史』の延長線上にあることの物的証拠です」


 一通り説明を終えると高山大臣は教科書に目を通し、渋い顔をして椅子に座りなおした。

「なるほど。最低一回の時間遡及現象が、何らかの理由により起こったことは分かった。やはり第二次世界大戦については、私の計算通りだったな。しかし琉球王家の尚氏も爵位を奪われ、王公族の李氏も朝鮮に復位を拒絶されるとは……これが身分制を持たないアメリカ流か」

 さすがだ。あたしなんかより、ずっと飲み込みが早い。『歴史学とは、過去にルーペを向ける探偵行為だ』という授業中の発言を思い出した。

「だがな、蝦夷森少尉補。貴官のパラレルワールド説は、あくまで思考実験だ。時間遡及の原理が現在の我々からは観測できない以上、それはただの仮説に過ぎん。むしろタイムパラドックスが起こっているのは確実なのだから、元の世界は消滅していると考えるのが自然ではないか。存在が確認されているのは元の世界から来た教科書だけで、元の世界そのものではない。確かなのは、死ぬはずだった『シュレディンガーの猫』が死ななかった世界線に我々が存在しているという事実だけだ。元の世界線が残っているという証明がなされない限り、守るべきは今の世界線で再度の歴史改変を防ぐことである」

「そう来ましたか」

「時間遡及が起こったからと言って、『遡及前の世界』が『今、ここ』にある世界と並立し続けている保証はないだろう? ならば、話は簡単だ。二重に歪められた世界、三重に歪められた世界を出現させないこと。それが、今を生きる人間の務めだ。仮にタイムマシンが『北大』で発明されるのであれば、我が共和国の主権において、今後一切の歴史改変行為を犯罪にする。そしてそれを条約化し、国際法の世界に広げていく。それができるのは、『物証』を持っている我が共和国だけだ。そうでもしなければ、歴史の改ざん行為は連鎖を止めないぞ」

 高山大臣は真実を知ってなお、『歪められた世界』の住人である道を選んだ。……あたしたちの認識は紙一重のバランスで、お互いを突き放している。

 アイヌ民族が復権している『本来の歴史』に嫉妬すら覚えるあたしとは、やっぱりバックグラウンドが違うんだ。……シェイクスピアがオセロの台詞で、『嫉妬とは自ら孕んで、自ら生まれる化け物』って言ってたけど本当だなあ。

「ドラえもんのタイムパトロールは知っているな? あれは法学的に分析すると、『罪刑法定主義』と『法の不遡及』――この二つのルールを犯している。遡及する前の世界に『歴史改変罪』なるものがなかったとしたら、世界線の上でも時系列の上でも罪に問いようがない。だから、私はこう立法しようと考えている。――通常の現代法は、犯罪が行われた場所を基準とする『属地主義』と、加害者及び被害者の国籍を基準とする『属人主義』の二つで適用の是非が決められる。しかし時間犯罪に関しては『属世界線主義』と『属時系列主義』の二つを定めたうえで、新たに立法をするのが適当だ」

「先生、歴史だけが専門じゃなかったんですね」

「大臣と呼べ、蝦夷森少尉補。私は歴史学者ではあるが、学部と学位は法学だ。政治外交史は慣例的に、文学部だけではなく法学部でも扱っていてな。私が法学を知っているのは当たり前である。私は意外とインテリなんだよ」

 違う、『無駄に』インテリ。そう言いたいのを、ぐっと押しとどめた。

「以上、旧北大こと『国立アイヌモシリ大学』を所管する共和国文部科学大臣として申し述べる。陸軍情報部にあっては、さようご承知ありたい」

 言って、教科書を油紙に包み、あたしに返してきた。

 問答無用だな、これは。帰って早く、『共和派』が圧倒的多数を占める軍部で対策を考えないと。

 巧言令色すくなし仁。子曰く、君子は言うにとつにして、行うにびんならんと欲す――だ。

「お時間を取らせました、大臣。用件終わり、帰ります」

 思わず敬礼しそうになったが、とっさに押しとどめる。あたしは回れ右をすると、教科書が入った鞄を手に執務室をあとにした。

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