第一章  男子高校生を養っているお姉さんの話  令和十年十二月十一日(月) 宮坂航也

令和十年十二月十一日(月) 北海道札幌市・甘粕あまかす真琴まこと憲兵中尉宅


「………ん? 私……声……こえますか?」

 誰だ? 俺を起こすのは?

航也こうや君? 航也君!」

 聞き慣れた優しい声。彼女は俺の背に手を回し、俺を落ち着かせようと必死で背中をさすってくれていた。

 玉のような汗が、いくつも俺の額に浮かんでいる。うなされていたようだ。呼吸も落ち着かない。

 何か……悪い夢を見ていたはずだ。だが俺は、どうしてもそれを思い出せなかった。

 ずれた焦点が、正常な機能を徐々に取り戻す。彼女はベッドの脇に腰掛け、俺を抱き締めていた。

「……甘粕あまかすさん」

「安心しました。何か悪い病気にでもかかったのかと思いましたよ」

 俺が人事を取り戻したのを確認して、甘粕さん――甘粕あまかす真琴まことはようやく安堵あんどの息をついた。俺の胸板には、柔らかい乳房が当たったままだ。俺は気まずげに、言葉を継いだ。

「……ごめんなさい、起こしちゃいましたか」

 俺は少しだけ顔が火照るのを感じながら、甘粕さんから体を離した。彼女の寝間着からは、心休まる香りが強い印象を伴って感じられた。

「気にしないで下さい。あまりうなされていたので、心配になってしまって」

 甘粕さんはベッドから腰を上げて、サイドボードに置かれた水差しを手に取った。どうやら、隣の寝室まで俺の呻きが届いてしまったようだ。

 彼女は陸軍の憲兵隊に勤める将校であり、当直業務や残業のため勤務時間が不規則だ。だからできるだけ甘粕さんの睡眠の邪魔はしたくなかったのだが――悪いことをした。

「これを飲みなさい。落ち着きますよ」

「ありがとうございます」

 渡された水で喉を潤すと、心臓の鼓動が穏やかになっていくのを感じる。時刻を見ると、午前二時二十分だ。俺はコップを干し、サイドボードの水差しにそれを戻した。

「では……私は部屋に戻りますが、一人で寝られますか?」

「だ、大丈夫ですよ」

 一体、俺をいくつだと思っているのか。

「もう落ち着きましたから、ゆっくり寝られますって」

 俺は何やら恥ずかしくなり、布団を頭からかぶった。

「ありがとう。おやすみなさい、甘粕さん」

 甘粕さんがくすりと笑った気配を感じる。おやすみなさいと声をかけ、布団越しに俺の頭を撫でると、彼女は電気を消して部屋から出て行った。

 彼女が出て行ったのを確認すると、俺は布団から顔を出し、暗闇に浮かぶ天井を見上げる。

 最近、悪夢が多い。幸いにも夢の内容は覚えていないが、恐怖が忍び寄り、理不尽が俺を奪うあの感覚だけはおぼろげながら覚えている。そういうときには何故か、頭の古傷が決まって痛みをあげる。

 ――バカバカしい。きっと疲れているんだろう。明日になれば、また新しい朝が来る。万人に希望と喜びを運んでくる、新しい朝が。

 俺は髪をかきむしると布団の温もりに身を溶かし、静かな眠りへと落ちていった。


         ▼


「コーヤ、迎えに来たよー」

 甘粕さんを見送り、食器洗いをちょうど終えたころ、同級生の蝦夷森えぞもりマヤがやってきた。合鍵で玄関を開け、居間へと入ってくる。デコパッチンしようとすると怒るのだが、まるで広い額を強調するかのようにマヤはショートヘアを赤いピンで分けていた。

「おう、ちょっと待ってろ」

 食器の水を切ってカゴに入れ、濡れた手をタオルで拭く。マヤは居間に入ってきて、俺の仕草をじっと見ていた。

 マヤとは尋常じんじょう小学校でも一緒のクラスだった。クラスの人気者だったマヤは女子のくせに、俺達男子とよく遊んでいたものだ。

「毎朝毎朝、大変だねー。お姉ちゃん、家事できないからさ」

 言って、机の上に置かれた俺の鞄を取って渡してくる。

「じゃ、行くべさ。――あ、ほっぺにごはんつぶ」

 マヤは小さな指を伸ばして、俺の頬の飯つぶを取った。俺は学ランのジッパーを、カラーの下まできっちりと閉じる。

 高校に入って知ったのだが、マヤは甘粕さんの義理の従妹だという。世界は狭い。こみ入った事情がありそうなので詳しくは聞いていないが、ともかく二人の仲がよいのは確かだ。一方、俺と甘粕さんは別に親戚でもなんでもない。だが甘粕さんは俺の後見人――要は親権者ということになっている。


 尋常小学校を出た俺――宮坂みやさか航也こうやは、外交官だった父親の転勤に付き従ってソ連の首都・モスクワに引っ越した。

 その後は現地の日本人学校にしばらく通っていたのだが――モスクワに駐在するような日本人の子息は上級学校への進学組が大半なので、一応は設置されていた義務教育の高等小学校は開店休業状態だった――、家族でドライブに出たある日、俺の一家は交通事故に遭った。運転席と助手席に座っていた両親は即死。後部座席に座っていた俺自身も頭に重傷を負い、長いこと意識不明の状態だったらしい。これは当時、大使館に駐在武官の補佐官として詰めていた甘粕さんから聞いた話だ。

 事故の記憶ははっきりしていない。大使館の医者が言うには逆行性健忘症と言って、事故から時間軸をさかのぼって、一定時間の記憶が欠落する症状だそうだ。目が覚めたとき、実に事故から一年もの年月が経過していた。

 両親を失った俺に救いの手をさしのべてくれたのが、甘粕さんだった。俺の父親、宮坂一等書記官に恩があると言って、彼女は進んで俺を引き取ってくれたのだ。

 新しい家族になった甘粕さんは俺を航也君と呼び、肉親のように面倒を見てくれた。俺もできるだけのことをして甘粕さんに報いるべく、家では家事を一手に引き受けている。彼女は『真琴さん』と名前で呼んで欲しいそうだが、色々とはばかりもあるので俺は『甘粕さん』と呼んでいる。


 マンションの玄関を出ると、夜半に降り積もった雪の上に真新しい足跡がいくつもついていた。今年の札幌は雪が多く、どの家も除雪に四苦八苦しているようだ。

 四月になったら雪が融けて、アスファルトを傷つけるんだよな、これ。札幌は内地に比べると、二百万都市なのに明らかに車道がボロボロだ。

 俺は鞄を背負い、冬用の学生靴で雪の車道に足を踏み出す。マヤは自分の鞄から耳当てを取り出し、髪の上からつけた。寒さに頬をべに色に染めながら、白い息を弾ませている。

「ねえコーヤ、前から気になってたことがあるんだけど。――お姉ちゃんって、キレイだと思う?」

 学校への通学路を辿りつつ、マヤが唐突に尋ねてきた。楽しそうに問う声が、冬の町並みに澄み渡る。

 顎に手をやってしばし考え、「そうだな」と応えた。

「それでね、一つ屋根の下に暮らしてるわけっしょ?」

「屋根はマンション全体で一つしかないが、何が言いたいんだ?」

 俺の少し前を歩いていたマヤがターンして振り返り、ウインクしながら人指し指を突きつけてくる。

「そこに愛はあるのかい?」

 古いぞコラ! ――無言でマヤのこめかみに拳を当てる。梅干しの刑である。

「痛い痛いっ! やめてー、やめてー!」

 俺が拳をグリグリと回すと、マヤは奇声をあげて暴れた。一体こいつは、朝っぱらから何を考えて生きているのだろう。これでも校内屈指の成績だというから、人間は分からない。

「この野郎、勝手に突っ走って禁断の愛を捏造するんじゃない!」

 ひとくさり痛めつけて、俺は涙目のマヤを解放する。

「か、仮にも女の子に向かって『野郎』はないっしょ!」

「分かったよ、悪かった。お前はレディだし、俺はジェントルマンだ。訂正する」

 俺は素直に頭を下げる。確かに、レディに向かって野郎はない。

「分かればいいのよ」

「この女郎じょろう、勝手に突っ走って――」

 にんまりと笑うマヤ。次の瞬間、ぶちっと股間に鈍い衝撃が訪れる。恐る恐る視線を落とすと、マヤの白い膝が俺の『大事なところ』にめり込んでいた。

「あ……が……」

 最後まで呪いの言葉を吐く前に、俺はその場に力無くうずくまってしまった。


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 北海道庁立南高等学校高等科、文科甲類二年ホームルーム。

 教室の時計の左横には、『君のHEARTに体罰直撃!』と書かれた紙が貼られている。これは、歴史学を担当する正担任の高山が書いたものだ。

 ハートだけが英語表記なのは、『甲類』が『英語専攻』の意味だかららしい。ちなみに乙類はドイツ語、丙類はフランス語である。これは全国共通だ。

「あ痛たたた……」

「もう、自業自得だからねっ」

 先に左に座っているマヤの機嫌はまだ直っておらず、ツンツンして腕を組んだままだ。

「航也さん、どうされましたの?」

「いや、ちょっとな」

 股間をかばいつつ、俺は鞄を机の上に放って席に着いた。右の席のアーニャが、心配げな表情を浮かべる。

 俺と幼馴染のマヤ、そして留学生のアーニャは何故かウマがあい、ことあるごとにつるんでいる。そして部活動も、同じ剣道部だ。

 もっとも、他に部員はおらず団体戦にすら出られない、廃部寸前の弱小部活である。むしろ活動の主軸は現状、道場で竹刀を振った後の『稽古後ティータイムKTT』にある。

 俺達の学年が二年に上がるとき、前の三年生がいなくなった剣道部は本来潰れるはずだった。最低三名の部員が所属していないと、その部は活動停止になってしまうのだ。

 一学期の間だけは七月までの猶予期間が与えられたが、形だけの部長になった俺は窮地に陥っていた。副部長のマヤも、空席になっている『主将』を引き受けてくれる生徒を本気で探していた。

 その悩みを解決してくれたのが、アーニャだった。彼女は名前から分かるとおり日本人ではなく、ソ連からの留学生だ。


 彼女が剣道部に加わったのは、春のリラ冷えも終わり夏の気配を肌で感じられるようになったころだ。三人目の部員獲得のタイムリミットが近く、そのころ俺とマヤは焦りに焦っていた。

 ある朝、部員獲得策について話し合っていた俺達は、教室の扉が開く音で入口に目を向けた。途端、教室に満ちていた話し声がぴたりと止む。

 校庭に植わったポプラ。その香りをはらんだ心地よい風が、窓を通って廊下へと抜けていった。ガラス窓のすぐ外まで伸びた枝の隙間から、淡い緑に彩られた木漏れ日が運ばれてくる。

 扉を閉めた正担任と、夏服のセーラーを着た見知らぬ金髪の女子生徒が、つかつかと教卓の前へと進んでいった。腰まで届く長い髪は、カチューシャでまとめられている。クラス全員の興味と注目は、みめうるわしいこの女子生徒に向けられていた。

 女子生徒を先導する正担任は高山たかやま圭介けいすけと言って、歴史を担当している准教授だ。まだ若く、二十代と聞いている。

 夏でも三つ揃いのスーツ。それに銀縁の丸眼鏡というお堅い格好だが、勤務態度はお世辞にも堅いとは言えない。はっきり言って、こいつはセクハラと体罰を生きがいにしている悪魔の申し子である。

 金髪の女子生徒のほうには見覚えがない。ひょっとしたら、『近々来る』と高山から予告のあった転校生だろうか。まさか外人とは思わなかった。

「グッモーニン、諸君! 今日は諸君に、新しい学友を紹介するぞ。お約束を守って、通学途中の交差点でトーストをくわえたまま衝突した者はいないな?」

 無駄に元気な高山の声が、俺の耳に届く。こんな奴に必修の単位を握られている事実に気付き、俺は無性に悲しくなった。

 カツカツと音を立てて『アンナ・アレクサンドロヴナ・ベリンスカヤ』と黒板に書き付けた高山が、真面目くさった表情のまま教室を見渡した。

「彼女は、私の友人の氷崎ひさき君が『パツキン美少女ナンパ紀行 ソ連東欧編』の撮影でスカウトしてきた。だが女優の名前は分かっている、断じて企画モノではない! 情報公開グラスノスチというのは実にすばらしいものだな。では、カメラに向かってスリーサイズを上から――」

 そこまで言ったところで高山は足を押さえ、声にならない声を漏らした。どうやら、転校生の女子生徒が素知らぬ顔で高山の足を踏んだようだ。しばらく悶絶した後、高山は立ち上がって何事も無かったかのように続けた。

「……ゴホン。失礼。今の冗談は、マジックミラーがどうとか時間が止まってこうとか、あるいは出会って五秒で即なんたらとかいう映像作品を視聴している男子諸君にしか分からなかったな。彼女は道庁が進める日ソ交流事業の一環として、今日から卒業まで諸君らの同級になる。さあ、挨拶を」

 彼女は息を軽く吸うと、青い瞳で教室をはっきり見据え、言葉を紡ぎ始める。

「みなさま、ごきげんよう。わたくし、アンナ・アレクサンドロヴナ・ベリンスカヤと申します」

 流れるような日本語。一片のよどみも無く、部屋に漂う全ての時間を引き寄せて、彼女は小さな桃色の唇から自己紹介を始めた。

「長いので『アーニャ』で結構ですわ。ソヴィエト社会主義共和国連邦СССРのヴォルゴグラード市から、交換留学生としてやって参りました。趣味は語学と読書――そして、フェンシングを少々たしなみます。こちらでもフェンシング部があれば、続けてまいりたいと思っていますわ」

 ブロンドが窓から差し込む朝日をはね、けざやかに薫った。光の雫が、残像となって俺の網膜に鮮烈な印象を残す。

「それでは皆様、どうぞよろしくお願いいたします」

 天使の微笑みをたずさえ、彼女――アーニャは優雅にお辞儀をする。

 教室に満ちる拍手の中、窓からの風にプリーツスカートの裾が揺れ、透き通るような白い太腿がのぞいた。

 顔をあげたアーニャと一瞬目があった気がしたが、次の瞬間には彼女は教室の中ほどを見つめていた。きっと気のせいだろう。

「ではベリンスカヤ、席はそこだ」

 高山は教鞭きょうべんで、俺から見て右の席を指した。アーニャは頷き、机の合間を縫ってしとやかに席につく。高山はそれを見届けると、いくつかの連絡事項を板書し始めた。

「コーヤ、ちょっと」

 横目でアーニャに目をやりながら、マヤが俺の脇腹を肘でつつき小声でささやいてきた。

「なした?」

「……あのコ、どう思う?」

「立ち居振る舞いに品格があるな。お前とは大違いだ」

「そういう話じゃなくて、主将にどうかなって訊いてるの。剣道部の主将にさ」

「そっちの話かよ。……お前、本気で言ってるのか? 誰に頭を下げても断られたんだぞ」

「うーん、あたしの見立てだと脈はあると思うんだけど。うちの学校、フェンシング部なんてないし。わざわざ留学してくるくらいなんだから、日本文化には興味あるでしょ。ここはあたしに任せて。放課後に勝負かけてみるから」

「分かった。この件は一任する」

「それでいいわ。あとは、あたしの手並みをしかと見てなさい」


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 最初は勧誘が上手く運ぶか心配だったが、アーニャも今ではすっかり俺達にとけこみ、剣道部のメンバーとなっていた。

 どうせ団体戦に出られるわけでもないので、朝稽古なんて本格的なものは行わない。

 俺は昔かじっていた剣術の腕をなまらせないために放課後の稽古に顔を出す程度だが、マヤはああ見えて、半分くらいはまだガチ勢である。他校では中学に当たる尋常科時代は札幌市中体連の新人戦個人戦で、その時点ですでに初段持ちだったマヤは『女子の部』で堂々の優勝を記録している。何しろ練習には、摩擦を嫌って下着を穿かないほどだ。アーニャは初心者からだったが、フェンシングでの勝負勘が功を奏したのか、今ではそれなりの腕である。

 俺達の部活のノリが大きく変わるのは、『顧問』――学校教練を担当する配属将校である、副担任の杉原すぎはらたかね少尉が稽古をつけてくれるときくらいである。

 少尉は強い。半端じゃなく強い。陸軍士官学校を経て陸軍戸山学校で軍刀操法課程に進み、首席で修了したという話は伊達じゃない。

 俺を立ち会い役として、少尉がマヤに稽古をつけたときの話だ。今でもあの光景は、鮮明に覚えている。


 蹲踞そんきょから立ち上がると、マヤは定跡どおりに中段で構え、切っ先を上下に揺らす『鶺鴒せきれい』の動きをとる。幕末に栄えた北辰一刀流から現代剣道に残った、基本中の基本だ。

 剣気がぶつかり合う中、先に動いたのは少尉だった。

 静かに、だが揺るぎなく竹刀を持ち上げ、剣尖けんせんを徐々に天に向けるとピタリと止める。

 ――構えは上段、火の位。それも間合いを捨てて威力を取る、右足が前の『右上段』という古い剣術の構えだ。左手一本で遠間から『面』を打つ選択肢を捨てることになるため、高段者が行う剣道の試合じゃまずお目にかかれない。

 少尉は隙など見せず、彫像のように身動き一つしない。ころすような視線が、面金めんがねを通してマヤに注がれていた。

「っ……」

 威風堂々とした少尉の構えに、マヤは思わず息を呑む。対して少尉は一言も発することなく、マヤの出方を伺い続ける。

 言っておくがマヤは、決して弱いわけじゃない。尋常科時代は個人戦でかなりの成績を残している、れっきとした有段者だ。

 それでも……二人の格の違いは、俺の目にも明らかだった。

 均衡を破り、マヤが仕掛けた。自らの間合いに持ち込もうと、足を前に送る。

 しかし、少尉が一枚上手だ。腰の据わった足さばきで、巧妙にマヤの間合いから外れていく。それでいて、竹刀は微動だにせず構えは全く崩れない。

 対照的にマヤは、既に肩で息をしている。運動量の為ではなく、気迫のぶつかり合いと剣筋の読み合いに体が追い付かないのだ。

「はぁ……ッ……はぁ……ッ」

 その時だ。少尉の竹刀が、わずかに横にずれる。それは、少尉が初めて見せた隙――いや、これは虚隙きょげきだ!

っ!」

 瞬間、マヤはいざなわれたように床を蹴った。ずれた構えの隙間を狙い、刺すように面を狙う。

 だがそれより先に、少尉の竹刀が上段から唸りをあげてマヤの面に飛ぶ。相手の初動を読んでそれに先制攻撃を加える――『先』に対する、『先の先』だ。

「いやァッ!!」

 重く鋭い音を立てて、少尉の竹刀が防具を薙ぐ。その打突部位は、頭頂部からわずかに斜めにずれていた。

「っ……!!」

「面あり、それまで!」

 俺はそう宣言すると、少尉を指す白旗をあげる。両者は試合開始時の位置に戻ると、蹲踞ののちに納刀した。


「『切り結び 身に添う内は かたきなり 付け入ってこそ 味方とぞ知れ』――とは北辰一刀流・千葉周作先生の遺稿にある歌だ。剣理を読め、蝦夷森。私がなぜ間合いを稼げる左上段ではなく、剣道ではほぼ無意味な必殺の右上段を選んだかを。理由は、頭を斬る際の威力だ。両手軍刀術の型にも初撃の突きから左足を後ろに引き、右上段に構えなおして二撃目を振り下ろすものがある。……両手軍刀術は、満州事変での戦訓をもとに理論付けられた実戦的な流派だ。私は最初から、竹刀の利点を捨てて『真剣』として扱っていた。お前はそこを逆手にとって、勝機を見出すべきだった」

 ……やはりモノが違うな、少尉は。一見ただの稽古に見えて、すべての動作に理論的な裏打ちがある。術理を修め、実践してきた者の重みがある。『勝つ』ための剣じゃなく、『斬る』ための剣だった。左手一本で柄頭を握り、遠間から頭を打つだけでは『殺せない』ことを体で知っているんだ。

 さっきの面。実は現代剣道では、面の正面を打つのが正しい。少尉の腕なら、それは造作もなかったことだろう。だが、少尉はあえて斜めにずらした。実戦剣術では、体の中心線は狙わないことが多い。

 俺は有効と判断したが、あれはやはり剣道ではなく『剣術』のやり方だ。頭蓋骨の真正面を狙った場合、まれに刃が左右に滑って致命傷とならない場合がある。だから実際に斬り殺すときには、斜めに斬りかかるべしと教える流派が多い。

 そして、もう一つ。剣道では、竹刀は基本的に有効打突部位に『当てる』ものだ。だけどそれだと実は、真剣で相手を斬ることができない。それどころか刀への衝撃で、刀身が曲がるか折れるかすることもある。日本刀の構造上、致命傷を負わせるためには刀身で『突く』か『手前に引く』しか手はないのだ。つまりマヤの面を正面から打つのではなく、斜めに薙いだ少尉の太刀筋は――俺程度の目から見ても、明白な殺意を帯びていた。当たり前だが、真剣なら確実に命はなかっただろう。俺はこの時、少尉が人格形成を掲げる剣道家じゃなく、人を斬殺する訓練を受けた『剣術家』であることを思い知らされた。


 うちのクラスの副担任は、少なくとも剣道場にいるときはそういう人だ。アーニャが短期間で腕をあげたのも、名伯楽めいはくらくたる彼女の貢献が大と言える。

 ――と。回想に浸っていたところ、『正』であっては欲しくないほうの担任・高山圭介が音もなく現れ、教卓に出席簿を叩きつけた。

「ヒューヴェーフォメンタ、諸君。新しい朝が来たぞ!」

 生徒が少しでも騒ぐと、軍隊あがりの高山は容赦なく体罰をふるう。本人は『しばきのライセンス』を保持しているとホザいているが、もちろんデタラメだ。下品な発言が多いこともあり、大抵の生徒は高山を嫌っていた。

「さて、今日の連絡事項だが特にない。今日も一時限目は歴史なので、このまま授業を始める。毎日朝一番で私の授業を受けられて、諸君らは幸せだな」

 教材を教卓に置き、高山はチョークに手を伸ばす。そのまま板書を始めるかに見えたが、その手がふと止まった。

「……北海道と樺太の分離独立を画策する『アイヌモシリ共和同盟』が騒がしいこのご時世だ。授業に入る前に、諸君らに伝えておきたいことがある。それは『歴史』を学ぶ意義そのものだ」

 ――アイヌモシリ共和同盟ARB。俺も名前は知っている。北日本のうち、アイヌ民族や樺太のウィルタ民族・ニヴフ民族といった北方諸民族が住んでいた北海道や樺太の分離独立を綱領に掲げる、非合法政党だ。かつては小さな民族主義政党だったのだが、社会主義を経済政策に取り入れたことで道内の社会主義者が出自を問わず広く参加するようになった。今では、その地下組織や支持者の数は決して無視できない規模になっている。

「諸君らの向きには既に終わった事柄を学んで、今後の人生に何の役に立つかと思う者もいるかもしれない。それについて、答えを提示する」

 高山は言葉を切ると、黒板に大きく短い文章を書きなぐった。


『歴史は繰り返す。である以上、過去を知ることは未来を知ることであり、歴史学は実学である』


「諸君らは、いま現在の社会のありようを当たり前だと思っているかもしれない。しかし、我々がいまいる学校に思いを馳せてほしい。日本の学制は初等教育の尋常小学校六年、中等教育の中学校五年、高等教育の高校三年に大学三年だ。ではアメリカではどうか。初等教育の小学校六年、中等教育の中学校三年に高校三年、高等教育の大学四年である。このように、社会構造の重大な構成要素である教育システムからして相対的なのだ」

 確かに、英語でハイスクールと言う場合、日本と英米圏では意味合いが異なる。高校の教員が中学までの『教諭』ではなく『教授』と呼ばれるのは、日本の高校があくまで高等教育の前期課程として教養を身につけるための場所だからだ。

 だからと言って目の前で講釈を垂れるこの男に、『准教授』なんていう大層な肩書が似合うとは思えないが。

「有名どころで歴史の『もし』を考えてみよう。『いま、ここにある社会』を決定づけた出来事のうち、『否や』が簡単に想起できるものだ。例えば――薩長同盟が結ばれていなかったら第二次長州征討が成功し、幕府は存続していたかもしれない。孝明天皇が不審な突然死を遂げなければ、維新回天はありえなかっただろう。そして今日の本題である第二次世界大戦だが、もし日支事変の初期、昭和十三年に満州国で大慶たいけい油田、及び遼河りょうが油田が発見されていなかったとしたら、日本は資源戦争を――おそらくアメリカ相手に行わなければならなかった。勝てるわけなどないのだから、アメリカの州か属国になるのがオチだ」

 高山は黒板消しでさっきの文章を消すと、黒板にアジアの地図を描き出した。

「大慶油田というのはここだ。満州国の黒竜江省にある。遼河油田は遼寧省だな。ここから産出される油は、第二次世界大戦に傍観を決め込んだ我が国の貴重なエネルギー供給基地となった」

 高山は地図の横に、素早く年表を書き始めた。


昭和十一年 日独防共協定

昭和十二年 日支事変

昭和十三年 満州国の二油田発見(石油利権をリソースに対ソ連携へ→中国共産党とのパイプを確保し、泥沼の支那戦線から撤退)

昭和十五年 日独防共協定破棄(それ以上の防共協定維持は国益に沿わないため。ナチスへの戦争協力も反故)。日本及び満州国、中立国宣言

 

「見事なほどマキャベリズムに徹した、ドイツに対する二枚舌外交だ。もしこの油田がなかったら、日本は幻の『日独伊三国同盟』を締結し、本国がドイツに占領されていた当時のフランス領インドシナに進駐するしかなかったと推測される。しかし、そうはならなかった。日本は枢軸国でもなく、また連合国でもない第三極となったのだ。二つの油田の発見は、現代の神風と言える」

 高山という男は、授業以外ではくだらないことしか言わないくせに、逆に授業ではくだらないことを一切言わないという変わった教員だ。

 しかし授業でいくらご高説を披露したところで、普段の行いが行いだから説得力がまるでない。講師としては一流、教師としては二流、人としては三流といったところだろうか。

 高山の授業では、内職は禁止されているが居眠りは禁止されていない。ノートはあとで、誰かにコピーさせてもらえばいいだろう。俺は夢見が悪くて眠れなかったこともあり、机に突っ伏して睡眠学習に切り替えることにした。


         ▼


 一時間目の歴史から目覚めた俺は、二・三時限目の学校教練に向かった。

 学校教練というのは、平時の当選率が二割程度と言われている兵役の抽選に当たった場合を想定し、『配属将校』と呼ばれる現役の陸軍将校が基礎的な軍事訓練をカリキュラムの中で施す制度だ。だから対象は、兵役対象者である日本の有権者、つまり日本国籍保有者ということになる。

 従って、ソ連国籍のアーニャはクソ面倒臭い学校教練からは免除だ。単位に関しては、出席なしの自動認定方式だそうである。『第三極』としての日満ブロックを維持する必要性から兵役と選挙権を男女双方に拡大した日本は現在、世界でもまれに見る男女同権国家になっている。

 今日は、今学期に入って初めての射撃訓練だ。軍の酒保しゅほでも売っているというキノコ型の耳栓をポケットに詰め、配属将校の到着を待って整列する。

 射撃訓練は、陸軍の射場しゃじょうを使う。校庭には既に、陸軍側からのトラックが出張ってきていた。

 トラックに目を配っていると、週直が「気をつけ!」と号令をかけた。

 足の開きを六十度に揃え――因みに女子は五十五度と決まっている――、前の奴の頭を見すえる。


 校舎からやってきたのは昭五式軍衣に身を固め、軍刀を左腰に提げた杉原たかね少尉だ。

 言わずと知れたわが剣道部の顧問で、つい最近まで朝鮮半島の反乱軍と戦っていた帰還兵である。

 ついでに言うと彼女は、よそだと中学に当たる四年制の本校『尋常科』のOGでもある。ただし途中で陸軍士官学校に進学したため、いわゆる高校に当たる高等科には通っていない。

 少尉は今は部隊勤務を外れ、教練担当の配属将校として生徒の訓練に当たっている。たたずまいを正すと、列の前に胸を張って立った。


「気をつけ! 杉原区隊長に対し! 敬礼ッ!」

 帽子のひさしに人指し指を宛て、杉原少尉に敬礼する。

「文科甲類二年、総員四十二名、事故二名、現在員四十名。事故の内訳、感冒かんぼう一名、留学生免除一名、集合終わり!」

 人員報告を週直が終えると、少尉は敬礼を返して軍刀を腰から鞘ごと抜き、杖のように雪に突き刺した。

「休め。ただいま一〇三〇ひとまるさんまるをもって、我が杉原区隊は学校教練を実施する。何度も言うが、実弾射撃は危険だ。かならず私の号令は口に出し、復命復唱ふくめいふくしょうするように。排莢不良などの異常事態が生じたら、『待て!』と叫べ。たとえ参謀総長でさえ、射場でのその声には従う義務がある」


 今日の的は遠的えんてき――つまり、三百メートルの裸眼射撃だった。

 前回は二百メートルの近的きんてきだったのだが、今回は雪の乱反射の中で照準する訓練も兼ねているらしい。

 北国には、『雪目』という言葉がある。雪が太陽の光を反射して、目が眩しさでやられることだ。『遮光器土偶』のあの独特の眼鏡のようなものは、雪目を防ぐために光量を絞る原始的な道具だと考えられている。それくらい、陽が出ている日の地面は眩しい。それが、北国の冬だ。


 射撃訓練の前、俺は杉原少尉に呼び出された。

「宮坂。貴様、射撃に使う目の視力はいくつだ?」

「右ですから、1・0です」

「取り立てていい方ではない、か……普段の稽古で、動体視力がいいのは知っているが」

 うーむ、と杉原少尉は考えこむ。そして、俺の右目をまじまじと見つめる。

「何か、気になる点でもあるんですか?」

「おおありだ。平均弾着痕へいきんだんちゃくこんからの零点規正ぜろてんきせい方法は、定められた通りに教えた。だが貴様の場合、点数が尋常ではない」

「はあ。特別なことをしているつもりは、俺にはありませんが……」

「いや、別に責めているわけじゃない。日本の小銃は、突撃銃としては世界有数の精度を持っている。だがな、普通のことだけをしていて、普通でない結果が出ている。それ自体がすでに異常だ。最初の実射で五十点満点中四十七点の生徒など、聞いたこともない。部隊なら射撃特級き章もの、レミントンが宛がわれるレベルだ」

 ……げ。まさか兵役のクジ、優先的に当たるようになるんじゃないだろうな。

「やだな少尉、マグレですよ、マグレ」

「だから、今日はそれを見極める。いいか、普段通りにやるんだ。前回と同じように」

「分かりました」

「私も射場指揮の仕事があるので、真ん中を指定させて貰った。第一射群第三的。銃は、前回と同じものを宛てがってある。他の学年の者が使用したので、任意に零点規正を実施せよ」


「射手、目標正面てーき! 射ち! 姿勢点検始め!」

 杉原少尉の号令を復唱し、俺は伏射ちの姿勢をとる。

 右肩に銃床をしっかりホールドし、頬を銃尾に押しつけ、照門の穴に照星のてっぺんを合わせる――これを『見出みいだしを取る』と言う――

 二百の時もそうだったが、三百になると完全に的の人型が黒い点にしか見えない。

 しかも、頭に乗せた鉄帽がやたらと重い。こりゃ、さっさと射ち終わらせるのがいいだろうな。


 ――裸眼射撃の鉄則は、眼の焦点を照星の頂上に置くことだ。的を見たら最後、弾はまず当たらない。

 ――正しい狙い、正しい見出し、正しい照準。それが全てだ。


 杉原少尉が、最初の射撃訓練でそんなことを言っていたのを思い出す。

「宮坂ッ! 伏射ちの時はカカトを地面にぴったりつけろ! 実戦では射ち抜かれるぞ!」

「はい!」

 俺が返答する間もなく、杉原少尉が俺のカカトを軍靴で押さえつける。……痛ぇっての。

「よーし、姿勢点検やめ! 安全装置確かめ、三発入り弾倉、弾込め!」

「姿勢点検やめ! 安全装置確かめ、三発入り弾倉、弾込め!」

 ……実射の前には点検射と言って、的に向けて三発射つ。その三発の中心地点が、『平均弾着痕』だ。

 それが、射ち手と銃が持つ『クセ』になる。その情報をもとに照門を動かし、照準を修正する。それが『零点規正』である。戦争映画なんかで小銃手が『クリック』をいじっているが、我が国の銃では、最小単位の一クリックが一/四ミル――つまり、一キロ先の二十五センチになる。その『点検射』と零点規正を、実射の前に三回繰り返す。だから実射の前には、三発かける三回で九発を射つことになる。

右方みぎかた用意!」

「右方よし!」

左方ひだりかた用意!」

「左方よし!」

「射撃用意!」

「射撃用意!」

 槓桿こうかんを引いて初弾を装填し、安全装置を単発に合わせる。

「射てッ!」

 息を止め、タン、タン、タンとリズミカルに指を絞る。反動で浮き上がった体が、バネのように戻ったタイミング。それでやれば、一番早く終わるはずだ。

 右前に飛ぶ空薬莢を『セミ取り』と俗称されるネットで受け止めていた隣の兵隊が、機械に表示された弾着点を見て、とっさに立ち上がった。

 俺もモニターを覗き込む。ほぼ正三角形の形で、弾は四点圏の右側にごく小さく集まっていた。上に一本線を引いたら、昔の毛利家の家紋――一文字三星みたいだ。

 最高得点が、真ん中の五点。だから得点は、十五満点中十二点。なんだ、ひょっとしたら天才狙撃手かも……なんて思っていたが、意外と大したことないんだな。

 ……って、隣の兵隊、いったいどこに……


「待てッ!」


 と。

 後ろから、大声で『待て』の号令がかかった。声の主は――杉原少尉。何か事故でもあったのだろうか。

 そばには、今まで俺の弾着痕を見ていた兵隊が立っていた。


「現在時をもって、射場指揮官を交代する。最先任の下士官、指揮を代わってくれ。宮坂、ちょっと私のところに来い!」


 少尉は弾痕のデータがプリントアウトされた紙を左手に、俺を射場の外へと連れ出した。

 ――いけね、手を抜いたのがバレたかな?

 相手は現役の陸軍将校だ。ゲンコツの一つか二つはあるかもしれないと、俺は腹をくくった。

「まあ、耳栓を取ってそこに座れ」

 少尉は折りたたみ式の椅子を俺にすすめると、自らも同じように腰を下ろした。

「宮坂。私は、普段通りやれと言ったはずだが?」

「……すみません。早く終わらせたくて、手を抜きました」

「手を抜いた――だと?」

 少尉は激昂し、声を荒げた。

「ふざけるな、この点検射のデータを見ろ!」

「十二点ですけど」

「点数の問題じゃない! 三点圏だろうが五点圏だろうが、そんなものは関係ない! 点検射は外れて当たり前、照門の位置を直すためのもの。問題は、三つともほとんど同じ位置に当たっているということだ」

「……すみません、仰っている意味が」

「だから! このデータが示すのは、もし照門を直していたら、全弾が的の致命圏どまんなかに当たっていたということだ! 姿勢保持、照準――誤差がほとんどなければ、こんなことにはならん!」

 ああ……言われてみれば、理屈上はそうなる……のか?

「なぜだ? なぜたかが二回目の実弾射撃で、貴様はこんなことができる――? 新兵なら、一個歩兵連隊に一人いるかいないかの数値だぞ……」

「ですから、マグレですって」

「二回も続いたら、それはマグレじゃない。必然だ。……ああもう、貴様の射撃を見ているとこっちがおかしくなる! じ後、射撃の点数は見込みでつける。参加はしなくていい。これ以上貴様の噂が立ったら、ここの受け入れ部隊が恥をかくだけだ」

「あの、じゃあ俺はもう……」

「車を出させるから、学校に帰れ。今手配するから、ここで待っていろ」

「分かりました……」

 あっけにとられた俺を背に、少尉は射場に戻っていく。まあ、この寒空の中で射撃ってのも面倒だ。

 一コマ分、得したと思えばいいか。いま少尉に下手に声をかけたら、ヤブヘビになりそうだからな。


         ▼


 他のみんなより先に帰った俺は、更衣室で着替えると剣道部の部室を訪れた。

 ――とは言っても、部員はうちのクラスにしかいないからな。もしいるとしたら、アーニャくらいのもんだ。

 ドアを開けると、アーニャが鼻歌を歌いながら編み物をしていた。

 色はエンジ色。柄は品のあるチェックだ。俺が入ってきたことに気づくと、アーニャは慌てて道具を片付けた。

「こ、航也さん……? 今日は射撃訓練じゃなくって……?」

「ああ、そうだったんだけどな。なんか知らんが、俺一人だけ先に帰された」


 俺が事情を説明すると、アーニャは柔らかく微笑んだ。

「杉原少尉はマグレじゃないっておっしゃいますけど――航也さんはどう思ってらっしゃるの?」

「いやー、マグレだろ。だって俺、実弾射撃したのなんて二回目だぞ?」

「そう、ですか……」

 一瞬、アーニャの声色が変わった。ひょっとして、自慢しているように聞こえちまったかな?

「あ、そうそう。寒かったでしょう? お茶を入れますから、少しお待ちくださいましね」

「おう、あんがとよ」

 言って、アーニャは備え付けの簡易キッチンに向かう。

 この部屋は『稽古後ティータイム』で使うので、暇をつぶすために必要な一通りのものは揃っているのだ。

「お茶うけは……確か……」

 冷蔵庫の中を覗き込み、おこしのようなものを取り出すアーニャ。

 見栄えよく皿に並べ、俺の前に「どうぞ」と出す。

「これはなんだ?」

「コジナークと言いますわ。ナッツを砂糖で固めた、ロシアのお菓子です。甘いですわよ。わたくしが作りました」

「器用だな」

「よく言われますわ。お茶が入る前に召し上がっても結構ですわよ?」

「じゃ、遠慮なく」

 口の中に入れると、ザラメのような甘さと、ナッツの香りがした。

「うん、うまいよ。いい嫁さんになれるぞ」

「ありがとうございます」

 なんというのだろうか、アーニャには落ち着いた品がある。そこらの女子より、ある意味ではよっぽど日本的だ。

 留学生に選ばれたのも、なんとなくうなずける。彼女なら、国の代表としてどこに出しても恥ずかしくないからだ。

 妖精のように微笑みながら、エプロンをつけたアーニャが俺のかたわらにロシアンティーを置く。ジャムと紅茶を別々に味わうのが、ロシア式なのだそうだ。

 しかし……全般的にカロリー高いんだよな、ロシア料理……。俺も昔モスクワにいたから分かるのだが。


 俺が料理するときは、甘粕さんの好みに合わせて味付けをする。

 あの人はヴィシソワーズが好物で毎朝飲むのだが、クリームを毎朝というのはカロリー的にいただけない。

 試行錯誤の末、俺はクリームの代わりに豆乳を使ったヴィシソワーズを開発した。

 裏ごしは手間がかかるので、ブイヨンとカロリーオフオイルでジャガイモとタマネギを炒め、一晩冷ましてからミキサーを使う。最後にパセリとクレイジーソルトで仕上げるのが、俺のヴィシソワーズだ。

 ジャガイモのビタミンCは、加熱しても傷まない特性を持っている。北海道では安く手に入るので、結構重宝しているレシピである。


 ――今度、アーニャにロシア料理を教えてもらうのもいいかもしれないな。レシピのアレンジには自信がある。紅茶を傾けながら、俺はそんなことを考えていた。


         ▼


 マヤとアーニャの賑やかな話し声で、目が覚めた。昼飯を食って簡易ベッドに横になっていたら、つい寝入ってしまったらしい。

 うーんと伸びをして、ベッドから起き上がる。と、教練から帰ってきたマヤがそこにいた。

「起こしちゃったか。おはよ、コーヤ」

 時計を見ると、なんと六時。完全に放課後だった。外では雪の中、街の灯が夜のとばりに浮かんでいた。

 目をくべると、マヤはテーブルで来年度用の勧誘ポスターの下書きを描いていた。アーニャはエプロンをつけたまま、それを覗き込む。

「マヤさん。絵、お上手ですわね」

「でしょー? これが、アニメの国ジャパンの神髄よ」

 ボーイズラブ風のタッチが微妙に気になるが――なお、わが部に男子部員は俺しかいない――、まあそれは置いておこう。

 ポスターを見たアーニャはクスクスと上品に笑って、まつげに数本かかったブロンドの前髪を、磁器のような白い指で直していた。

「さて、マヤさん。航也さんも起きてらっしゃってよ。もう日も落ちてまいりました。そろそろ帰りませんこと?」

「はいはーい」

「分かった、すぐに支度する。……にしてもアーニャのその言葉遣いって、一体どうしてそうなったんだ?」

「そう……とは?」

「時代錯誤が過ぎる。あとそれは箱入り娘のお嬢様言葉であって、進学を前提とする学校の女子が使う言葉とは言いかねる」

「ああ……わたくしの日本語は、日本からソ連にいらしていた正教会のモナヒニャ……日本で言う『シスター』から主に手ほどきを受けたものですの。その方の母校では、こういう言葉遣いが普通だと伺っております」

 なんと。転校してきて以来、誰かが突っ込むだろうと思われつつも誰も突っ込まなかった『アーニャの言葉遣い』の真相は、意外なところにあった。そりゃこんな話し方にもなるよなあ、うん。

 さて、俺はコートを羽織って暖房を消すと、今夜の予定に思いを馳せた。

 甘粕さんは遅くなると言っていたから、晩飯の準備は要らないだろう。

けえるか、二人とも。ススキノあたりで飯でもどうだ?」

 ここからだと、南北線で数駅乗ればススキノには着く。

「異議なーし」

「いいですわね」

 ポスターの下書きを片付けるマヤ。マフラーを巻いて帰り支度をするアーニャ。どうやら結論は出たようだ。

「じゃ、鍵は俺がかける。最後に出たやつが電気消してな」

 俺は部室の鍵を手に取ると、荷物をまとめて帰り支度を始めた。


         ▼


 すすきの駅二番出口を出た俺達三人は、適当な飲食店を探して歩き回った。

 ススキノは、道内随一にしてアジア最北の歓楽街だ。狸小路たぬきこうじという近くの商店街にはアーケードがあり雪を防げるが、寒さまでは防げない。だが地下街に降りてしまえば、そこでは一年を通して一定の気温が保たれている。だから地下街はいつも都会の顔して、狸小路を田舎あつかいしている。北海道出身のフォークソンググループ『ふきのとう』の曲に、そんなくだりがあった。

 降りしきる雪のなか、ウイスキー会社の広告が街を照らす。としの行った髭の男が、ウイスキーのグラスを手にしている広告だ。これは英国のウイスキーブレンダーだった『W・P・ローリー卿』という人物をかたどったものだと言われている。日本はウイスキー後発国だが、現在は既に世界五大ウイスキーの一つ『ジャパニーズ・ウイスキー』のブランドを確立している。

 俺は交差点を挟んでその広告を向かいに回し、マヤとアーニャを先導した。

「いつものここでいいか? 今日みたいな寒い日は、辛い物に限る」

 俺は南四条通沿いのスープカレー店『Nirvana』の前で立ち止まる。道路の向かいには、市電の線路を挟んで商業施設『ココノススキノ』がそびえている。

 ここは値段も手ごろで、剣道部御用達の店だ。異論がないのを確認して、俺達は店に入っていった。


「……お待ち。濃厚コク旨スープのベジタブル、辛さ4。トッピングに卵焼き」

 おお、来た来た。

「いただきます」

 俺はマヤとアーニャにも注文が届いたのを確認すると、手を合わせてスープを口に運んだ。

 ここの卵焼きは、普通の卵焼きじゃない。寿司屋の卵焼きだ。和食の調味料に芝エビ、山芋――そういったものを卵に混ぜて、やっと『寿司屋の卵焼き』はできる。これがスープカレーに、意外とよく合うのである。

 全て焦げやすい材料なので、寿司ネタの中で卵がもっとも難しいと言われる。仕込みから焼き上げ、握りまでの工程がすべて一流の職人によるものでないと、本物の卵は提供できないからだ。この店の寡黙なマスターはもともと板前で、こだわりのトッピングとして『卵』を提供しているらしい。


「『我ら』とは何か。それはこの島に息づく全ての人間であり、決して大日本帝国の臣民ではない。我が国の国号はアイヌモシリ。北海道、というのは日本の植民地としての便宜的な呼称でしかない!」


 ふいに店の外から、なにやら演説が響いてきた。内容からすると、おそらく『アイヌモシリ共和同盟』だろう。道会選が近いからな。

 アイヌモシリ共和同盟は、あくまで非合法政党である。したがって、表立って候補者の公認や推薦・支持は行えない。

 しかし無所属候補に対する、『事実上の支持』は行える。そして非合法の演説を行う以上、当然道庁警察部も……って、やべえ。

「マヤ、アーニャ。この店出るぞっ! すぐにキナ臭くなる!!」

 一人や二人ではなく、数十人単位での怒号が飛び交っている気配を感じる。パトカーの赤色灯あかとうが明滅し、ガラス越しに俺の網膜を焼く。

 代金をテーブルに置き、二人を連れて店を出ると、やはり――にわかに外が剣呑な状況になっていた。

 発砲音とおぼしき乾いた破裂音が断片的に立ちのぼり、共和同盟の支持者と思われる連中が拳銃や猟銃を構えて、バスから降りてきた警察の部隊と乱闘状態に陥っている。

「騒乱罪適用、被疑者確保ーっ!」

 警察部警備隊は『CONTABULARY』と文字が入った透明な盾を手に、ヘルメットをかぶって暴徒を制圧している。

「大人しくしろぉぉぉっ!」

 道路に積もった雪の上には、暴徒の血で赤いまだら模様が描かれていた。鎮圧用の催涙弾が発射されたのだろうか、ツンとした匂いが鼻をつく。

「アイヌモシリ共和国に栄光あれ!」

 線路むこうの車道で、手榴弾のピンを抜きながら肺腑はいふを絞って男が叫ぶ。

 西からやってきた市電が周囲の異変に気付き、停留所に至る前に急ブレーキをかけた。男の姿が、車体の影に隠れて見えなくなる。

 途端、大きな爆発音が空気を震わせる。同時に鮮血がびしゃりと、停車した市電の窓に飛散した。マヤとアーニャが、思わず顔を背ける。

 車道に溢れる怒号と銃声と炸光が、冬の札幌を夏のリオに変貌させていた。これは血しぶきのカーニバル、死の行進だ。

「……ひでえな、こりゃ。シャレになってねえぞ」

 剣道部部長として、俺はマヤとアーニャの安全に責任を負っている。二人を安全に逃がす義務が、俺にはある。

「行くぞ、二人とも。竹刀は置いていけ。騒乱罪が出ている以上、暴徒とみなされる可能性がある」

「仕方ないわね」

「分かりましたわ」

 ――と。俺達が安全な場所に移ろうとしたとき、警察のものとは違うサイレン音が混じっているのに気づいた。

「!」

 俺は、その音に聞き覚えがあった。めったに緊急走行などしない車両……白いパジェロ、つまり憲兵隊の使う軍用パトカーだ。

「甘粕さん……!」

 甘粕真琴中尉が所属する第百二十地区憲兵隊は、司法警察員としてここススキノをも管轄している。

 程なくして、面パト仕様のブルーバードが白いパジェロの車列を離れてススキノの大交差点に突っ込み、スタッドレスタイヤを軋ませて俺達の前で停車した。

「乗って! 早く!!」

 8ナンバーのブルーバードが左のドアを全開にして、俺達を招き入れる。運転席では無表情の若い男がハンドルを握り、後部座席には甘粕さんが私服で俺達を待っていた。

 俺が後ろを見通せるルームミラーのついた助手席に、マヤとアーニャが後ろに座ったのを確認し、ドアが閉まると同時に甘粕さんは手元の送話器を手にする。

「こちら指揮車、甘粕から達する。指揮車は要保護者を確保完了。ススキノ交番に引き継いだのち合流する。送れ」


         ▼


 ススキノ交番の前で降ろされた俺達は、交差点での騒乱が納まるまで待機するよう言いつけられた。

 マヤもアーニャも、幸いなことに無事だ。だけど――俺自身は、何もできなかった。

 誰も傷つきはしなかったが、男としてそれだけは歯がゆかった。


 帰りは甘粕さんが面パトのハンドルを握って、俺達三人を家まで送り届けてくれた。大交差点騒乱事件の影響で、ダイヤが大幅に乱れていたためだ。マヤとアーニャを降ろすと、甘粕さんと二人きりになる。気まずい空気が流れ、俺は押し黙ってしまった。

「……誰にも怪我がなくて、何よりでした。悪質なテロ事件でしたからね。死傷者も逮捕者も、複数出ているようです」

「今日はありがとうございました。今日の甘粕さんは……すごく凛々しくて、カッコよかったです」

「ふふ、それじゃ普段の私はどう見えているんでしょうね?」

 苦笑する甘粕さん。まっすぐ伸びる通りの光芒こうぼうを見据え、ハンドルを握る。

「あ、いえ、そういう意味じゃなくて……俺が何もできなくて、情けなかったって話です。そうだ、話は変わりますけど……あれが例の『アイヌモシリ共和同盟』なんですよね?」

「ええ。北海道以北の独立を掲げる、社会主義結社です」

 無産主義政党なら話は別だが、現行法制では治安維持法のもと、社会主義政党には承認が与えられない。共和同盟ももちろん同様だ。

 北海道と南樺太、そして千島列島といった地域は、日本民族――つまり和人が入植する以前、北方諸民族が先住する地域だった。共和同盟の目的は、彼ら先住民族の先住権を保護する形で津軽海峡以北を独立させ、社会主義政権を樹立することにある。鉄道やマスコミ、教職員などの各界にも協力者が多いと聞いている。加えて、内地に暮らす北方民族からも少なからぬ財政支援が行われているようだ。

「道庁警察部の特別高等課は、彼らを組織的に潰そうと考えているでしょう。しかし、我々憲兵隊の目的は違います。そもそも一般市民に対して、私達の司法警察権は及びません。我々の捜査対象は、あくまで現役及び予備役の軍人に対してのみ。私達の義務と権限は、その摘発に留まります。ですから、立場はそう痛くない」

「人員も、憲兵隊と警察部じゃけた違いですしね」

「それなりの権限には、それなりの機材と人員を――ということですよ。だからこそ、私達は心に決めています。法に触れた軍人を検挙することのみが憲兵隊の使命であり、制服の黒い兵科色のように何物にも染まってはならない。目的は単純であるべきであり、思想もまた単純であるべきである、と」

 つまり――『政治警察』としては、憲兵隊は共和同盟に対して中立という話なんだろう。

 信号が赤になり、車が徐々に減速して停止する。そろそろススキノを抜ける。家ももうすぐだ。

「今日の事件……政治暴力という手段は完全に間違っていましたが、国連の先住民族決議などに照らす限り、共和同盟の『目的』自体には一理あると、俺は考えています」

「……つまり、我が国の人権思想が不完全だと?」

 信号が青に変わり、甘粕さんはアクセルを静かに踏み込んだ。

「そうとも言えるかもしれません。そもそもなんで彼らがあそこまで過激な行動に出るかと言われれば、根底に差別があるからでしょう。差別というものは、誰かの変えられない属性を下に見ることによって、自らを安堵させる心底くだらない行為だと思ってます」

「――私は、この官用車のハンドルを握りながら、それを判断する立場にありません。残念ながら」

 ネオンの森をルームミラーに流しながら、甘粕さんは見慣れた家路へと覆面パトカーを駆っていった。

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